KRバルト 祖国と自由のために/手記の終わりに

 
 
 

占領地の独立

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バルトが手にした占領地のうち、旧ドイツ帝国領を除いたポーランド、そしてウクライナは独立することとなった。

 
 

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残る欧州の大勢力である二重帝国との関係改善を目論んだバルトは、ハプスブルク家の分枝テシェン公爵家の公子、カロル・オルブラフト・ハプスブルグを王位に据えた。

 
 

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オストプロイセン及び(なぜか)フランスから返還されたリヴォフ地方はポーランド・ウクライナ両国が領有を主張する係争地であったため、間を取ったバルトが直轄支配することとなった。

 
 

戦火の残滓

 
 

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ドイツ本土の陥落によりバルトは暫しの休息を得たが、欧州の戦火は完全に途絶えたわけではなかった。

 
 

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戦うこと4年半のバルカン戦争はブルガリアがセルビア・ギリシャの頑強な抵抗を前にして膠着状態に陥っており、さらなる長期化が予想されている。
バルト政府はブルガリアに小規模ながらも支援を行い、南側の安全確保を図った。

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インターナショナルもイタリア連邦の抵抗に手を焼いていた。
ドイツとの戦争で極度に疲弊したフランス・コミューンは一時マルセイユを失陥するなど大苦戦を強いられながらも半年後の43年1月には連邦を降伏させ、イタリア社会共和国による第二次リソルジメントが達成される。

 
 

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教皇であるユリウス4世はオーストリアに亡命、ウィーンに教皇庁を遷座し反サンディカリズム活動を継続。

 
 

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しかし、イタリアがオーストリアとの交戦を望まずヴェネチアの領有権主張を取り消したことで、伊墺間の緊張状態は徐々に融和していくこととなる。

 
 
 

魔手と抵抗

 
 
 
帝国主義者に完全なる死を与えなければならない。海を越え、砂漠を越え、ジャングルを越えて。
                  
                                   ―――オズワルド・モズレー

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対独戦により人的資源を擦り減らしたフランス・コミューンは直接介入方針を改め、英国と共にアフリカを未だに支配している中欧同盟・協商国の残党を一層すべく
敵国現地人のパルチザンを支援する方針に切り替えた。

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協商は各地で反攻に出たが、欧州本土を取り戻せる力は実質的に存在しなかった。
特に、インド・ビルマを統一し協商随一の強国となったデリーもトルキスタンの侵略に手を焼き、制海権も盤石でない状況での大規模な支援は不可能だった。

 
 
 

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アフリカのアルジェリア・サヘル・ギニアで立て続けに起こった反乱をフランス国粋派は奮闘しすべて鎮圧、その間を狙った英仏軍の上陸も防ぎきった。
インターナショナルの目論見は外れ、アフリカ戦線は長期化の様相を呈しはじめる。

 
 
 
 
 
 

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その間にドイツは中部アフリカにてアスカリ部隊を編制、そして米国の支援を得て態勢を整えていた。

 
 
 

巨人目覚める

 
 

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WW2特需から来る空前の好況により、内戦からわずか数年でアメリカ合衆国はその息を吹き返しており、かつての大国の姿を取り戻していた。
米国は、徐々に反共の姿勢を明確にしドイツに対する大々的な支援を開始。
これによりインターナショナルは米国の参戦による欧州侵攻を恐れ、身動きを取ることができなくなっていく。

 
 
 

瀕死たる巨人

 
 
 
ケレンスキーの言葉を借りれば「ロシア革命は終わったのではなく、むしろ始まったばかりである」
もはやロシアの統治は地方にまで届いていない。
                  
                                   ―――ヴィクトル・チェルノフ(第二次ロシア革命時のロシア共和国首相)
 
 
 

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一方、もう一つの大国であったロシアは第二次内戦でさらに領土を失い、もはや立ち直れないほどの傷を負っていた。

 
 

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常に反乱の目は燻っており、日露同盟の成立後もその状況は全く変化することはなかった。
また、内戦後の軍の再建も進まず*1、もはや旧領奪回に乗り出す余力は残っていなかった。

 
 

バルト、フィンランド、そしてトランスアムールへの亡命者も後を絶たなかった。
ロシア政府は反政府活動を各地で続けるボリシェヴィキや急進的君主主義者への対応に追われ、ますます情勢は混沌化していくこととなる*2

ロシアに神の恩寵のあらんことを。

 
 

そして、バルト

 
 
 

西のインターナショナル、東のロシア・・・
両陣営が停滞するなか、バルト共和国は両陣営の侵攻に備え態勢を整えなければならなかった。

 
 

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フィンランド、ノルウェー、ブルガリア、さらにはオーストリアとの不可侵条約締結に成功。

 
 

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更には、日露同盟の盟主である日本とも不可侵条約の締結を取り付ける。

さらには、インターナショナルとの融和も狙い、平和共存を掲げた。

 
 
 

Hõbevalge

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開放政策により欧州の自由主義者や企業が大量にバルトに流入したことで、戦場となったリトアニアやポーランドの復興は急速に進んだ。
比較的占領地の統治も穏当なものとなっており、バルトはすぐ西側から怪物がこちらをつけ狙っているようには思えないほどの安寧を享受している。

 
 
 

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ただ、リガ市街を時折行進する世界に誇る精兵たちとリトアニア〜オストプロイセンに築かれ続ける大要塞線だけが、この怪物を思い出させる。

 
 
 
 

危ういバランスのもとに、バルトは発展期を迎える。

・・・・・・この国は、50年、100年と続いていけるのだろうか?
この欧州で、独立という綱渡りを続けることはできるのだろうか?

できなければ、世界大戦で死んでいったバルト国民の犠牲は無駄となる。
私は、あの戦争の指揮官であった私は、決してそれを望まないが。

 

それらの散った命の価値は、後世の政治家に委ねられる。

 
 
 
 
 
 

それがどうなるかを私が見ていくには、どうも時間が足りないようだ。

 
 
 

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今の私は、病で陸軍に暇を乞いエストニアのナルヴァで余生を送っている。
私の第二のバルトでの戦いの記録はここで終わる。

 
 

第二の祖国に末永く自由と栄光のあらんことを祈って、この筆を置くこととしよう。

 
 
 
 
 
 

・・・・・・

 
 
 

・・・

 
 

あとがき

この書籍は彼の手記のうち、36年から43年におけるバルト革命直前期から第二次世界大戦直後までのうちバルトに深く関わる部分を編集したものである(とはいえ、この時期の彼の手記の話題の殆どバルトに関してであり、また彼の43年夏以降の手記の存在は確認されていない)。
彼の手記にはWW2における所謂東部戦線の様子が克明に記されているのみならず、革命前夜のタリンの様子や戦間期からWW2戦後までのバルトに関係の薄い他国の様子、さらには当時のバルトの外交的苦悩までが詳細に表現されており、当時を知る貴重な資料となっている。

 
 

バルト革命において主導的な役割を果たしたのがエストニア・ラトビア人であったなら、独立国家バルトの草創期を中心となって支えたのは彼のようなロシア人や一部のバルトドイツ人であった。
彼のような経験豊富な将校に加え、第二次ロシア内戦においてバルトに「解放」された地域の人間や内戦から亡命してきたロシア人、さらには独立後もバルトに残ることを選択したドイツ人らは、多くがバルトに定着し、その発展に寄与した。

 
 

彼の手記の最後のページが執筆されたのは43年夏であると推測されている。
彼は43年春に病に倒れ、回復したものの年齢を理由にバルト軍を退役、同年夏にナルヴァへ発った(※バルト共和国元帥であったヨハン・ライドネルの日記にも記されている)。
その後、ユデーニチはナルヴァ到着後に再び病に伏し、1年後の44年秋に死去した。
彼の葬儀にはライドネルやかつての内戦期に共闘したマンネルハイム、デニーキンやヴラーンゲリをはじめとした各国の著名な将校が多く参列したといわれる。

 
 

彼の死後、バルトは内外に様々な問題(そのうちのいくつかは手記中に記されている)に直面する。
バルトが独立を、末永く自由と栄光を得られているかどうかは、諸君が一番よく分かっていることだろう。
読者諸賢がこの手記から白銀の国家の独立史について十分に理解する一要素となり、バルト史の扶植に寄与するあらば幸甚である。

 
 
 
 
 
 

―――1977年 バルト共和国首都・リガにて レナルト・ゲオルグ・メリ 

 

                                      エストニアに眠るニコライ・ユデーニチに捧ぐ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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KRバルト 祖国と自由のために


*1 なぜか知らないがドクトリン決定イベントが起こっていない?
*2 ちなみにセーブデータをのぞいてみたが不満度60%になっていた おかしい

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Last-modified: 2016-08-22 (月) 22:37:06 (1122d)