盧溝橋(七七)事件

盧溝橋での衝突は、日本の北支派遣軍と国民革命軍の限定的な闘争に過ぎなかった。
従って事件勃発後短期間で、現地の牟田口廉也大佐らの戦線拡大論とは別に、停戦協定が結ばれた。

しかし中日両政府は、停戦協定の締結と並行して前線に大兵力を集結させ、エスカレートする行動は戦線拡大を招いた。
だが、それは中日両政府の思惑の一致を示す現象ではない。日本側の兵力集中が現状の維持を目的としていたのに対し、中国側のそれは日本軍との全面戦争を決意してのものだったからである。

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それにも関わらず、盧溝橋事件は全面戦争の開始地点とはいえない。盧溝橋事件が招いた一連の戦闘は、詰まるところ限定戦争であって、ただの事変に過ぎない。この事変即ち「北支事変」が「中国人民抗日戦争=日中戦争」となった始めは、「第二次上海事変」と呼ばれる、中国軍による日本租界の包囲を契機とする一連の戦闘である。

淞滬會戰

中国軍は、市民に偽装した兵力を非武装地帯へと侵入させ、日本兵の目を盗みながら包囲網を完成させていた。包囲下にある日本海軍陸戦隊を救出すべく、日本政府は内地からの増派を決定したが、中国軍の統制された火力はその到着の前に敵を殲滅しきっていた。上海へ上陸を開始した日本軍を待ち受けていたのは、既に制圧され完全な防御を施された敵地であった。

日本軍は中国軍の防衛陣地を抜くことが出来ず、杭州湾の僅かな島嶼に陣地を残して撤退させられたが、海上における日本側の優勢が覆ったわけではなく、長江下流域から山東半島における日本軍の第二戦線構築の試みは継続し、中国大陸沿岸は戦争中常に攻撃に晒され続けた。

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その一方で、沿岸部の防衛線が強固なことを見た日本軍は、戦力を華北に集結させ、中国軍との決戦を狙って進撃を続けた。蒋介石は自軍の防衛力に自信を深め、また首都・南京の安全が確保されたことで、余裕を以て戦争指導に当たることが可能となった。

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太原会戦

日本軍は優れた装備と機動力で北京を攻略すると、黄河を越え中国内陸部に進撃を試みた。だが、日本軍がこの時点で相手にしていたのは北洋軍閥系や雲南・広西派出身のやや正規軍とは言い難い部隊であった。蒋介石は、自身にとって潜在的な敵ともいえる彼らを問答無用で前線に送り込み、遅滞戦闘を行わせた。

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さらに黄河付近の戦闘では、正規軍と呼ぶにふさわしい蒋介石直系の部隊が戦線を統率し、それは少なくとも防衛においては日本軍と対等に戦った。

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彼らの殆どは重装備を支給され、かつ砲兵部隊で増強されており軍閥系の師団とは比較にならない戦闘力を備えていた。

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これら中華民国正規軍は、黄埔軍官学校で専門技能を与えられた職業軍人によって統率されており、蒋介石やファルケンハウゼン将軍の命令や意図をよく実現し、日本軍を黄河前面で押しとどめた。中国側の善戦に対しアメリカ合衆国も支援を本格化させ、火砲・小銃とその弾薬だけでなく通信装備や軍事顧問の提供などを行った。

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皇帝の帰還

日本側は、格下と侮っていた中国軍将兵の士気と火力に脅威を覚え、1938年ごろには早くも方針を転換せざるを得なくなり、戦争目的は「中国全土の征服」から「華北への親日政権の樹立」へと縮小された。

それは、満州国を国際的に承認されるという副次的な目標を加え、後に満州から黄河以北を領土とする「清朝の復活」に変化していった。最後の皇帝・愛新覚羅溥儀は、奉直戦争の最中に馮玉祥に紫禁城を追放されてから、実に13年ぶりに我が家へと帰還したのである。

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Last-modified: 2019-10-29 (火) 11:42:07 (16d)