紫禁城帰還

清朝の再興、それは華北における軍事行動に国際的承認を得るための外交戦略であった。
1931年の満州事変によって成立した「満州国」は、中国の地方政権ではなく独立国家としての体裁を持ったがゆえに国際連盟で否定された。故に日本は、溥儀に中国国内の一政治勢力として名乗りを挙げさせ、その復興援助という形で日本軍の行動を法的に正当化しようとしたのである。

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溥儀の紫禁城帰還に対する各国の反応は割れた。当時満州国の承認に動いていたドイツは面目を潰され、日本政府に対する不信感と怒りは却って中独合作を強化する結果となった。ファルケンハウゼン将軍はドイツ本国から直接軍事技術の提供を受けられるようになり、アメリカもドイツの対中支援に便乗するようになった。

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一方、紳士イギリスは、廣田外相や吉田駐英大使のラインから日本の意図を正確に理解し、諜報によって得た軍事情報が香港から東京に伝えられるなど英国流のサービスで日本へ礼を返した。

大陸反攻

縦深浸透

こうして中国を巡る各国の思惑が二分される中、より得をしたのは中華民国の方であった。結局のところ中立国(ドイツ・アメリカ)船舶による装備提供を日本は止めることができず、伸びきった兵站は常にドイツやチェコ製の小銃とアメリカ製の砲弾によって叩かれ続けた。
戦争開始から約二年で日本軍は完全に攻勢限界に達し、中国軍の巻き返しが始まろうとしていた。

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その日、短時間ながら集中された砲撃の後、前線の日満軍は中国兵の一斉攻撃を受けた。一見無謀な正面突撃に思われたその攻撃は、その実周到に計画された大攻勢でもあった。中国軍は形振り構わぬ波状攻撃で幾つかの陣地を沈黙させると、その穴に後方の兵力を一気に投入した。

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余りに烈しい攻撃に後退もままならない日満軍は、まるで津波のように、予備隊の逆襲を跳ね返しながら後方へ抜けていく中国軍に側面攻撃を仕掛ける余裕もなかった。日満軍はたった一日で前線から後方司令部までの全域に攻撃を受け、壊滅状態に陥った。日本軍は中国軍の戦闘教義を津波のような「人海戦術」と呼んで恐れた。

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張学良、奉天へ

中国軍は半年間の戦闘で、日満軍に戦線の再構築を許さず、ついに開戦前の勢力圏を回復した。
日本軍は再度、華北から蒋介石の本拠・南京付近へ戦場を移すことを試みて海岸線に攻撃を加えたが失敗し、中国軍の逆襲によって残された橋頭堡も全て失った。日本軍の東シナ海における攻撃は、この後二度と行われなかった。

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こうした失敗にも関わらずそれでも日本軍は、恐慌状態に陥った満州軍を尻目に、損害を出しながらも態勢を立て直し満州までの撤退を成し遂げた。中国軍の戦術の進化の速度を考慮したならば、最早満州中央部の維持に固執することは得策ではない。日本軍は遼東半島を拠点に強固な防衛陣地を構築して時間を稼ぎ、朝鮮半島に兵力を集中させる戦略を立てた。

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近衛の挫折

中国軍の怒涛の反転攻勢により、日満軍はついに満州まで追い込まれた。戦争を主導した近衛文麿は弾劾され、総力戦体強化のため陸軍による政治支配が行われるようになった。英仏を破ったドイツによる本格的な支援の元、益々その戦力を増す中国軍に対し、外地での戦争に嫌気がさした日本兵たちの士気は、日ごとに低下していた。


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Last-modified: 2019-10-29 (火) 11:42:57 (16d)