厭戦

1941年の日本列島では、危険な飢餓・インフレ状態が発生しつつあった。中国で膨大な人的資源が失われたことによる労働力不足、アメリカやドイツ、ソ連による経済封鎖、そして高い水準で維持され続ける軍事支出の全てが、大日本帝国の体力を確実に奪っていた。新たに成立した東條内閣の使命は勝利ではなく、一定の軍事的成功を収めたうえで講和に持ち込むことであった。

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だが、東條内閣は期待された成果を挙げることは、なかった。軍事的成功といえば、たしかに中国軍の度重なる猛攻を遼東半島で凌ぎ続けたことといえるが、反撃に成功したわけではない。日本軍は資源不足の解消と大陸封鎖を狙って仏領インドシナを占領したが、兵力不足から第二戦線の構築には失敗した。

遼河会戦

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しかも依然として中国軍は満州中央部に居座っており、皇帝溥儀は危うくなった新京(長春)を離れ平城に逃れたままであった。
結局、中国軍による十度目の攻勢によって日本軍は限界に達し遼東半島を放棄、脱出することもかなわなくなった。

太平洋戦争

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こうして、中日戦争終結の見通しが立ってくると、最早アメリカが(仮にそれが見せかけに過ぎなかったとしても)中立を保っている理由は無くなっていた。ルーズベルト大統領は欧州戦線に介入しなかった代わりにアジアにおける市場拡大を志向し、その障害となる日本の海運・海軍力を破壊するため、機動艦隊を発進させた。
堪りかねた日本は東條を退陣させ、小磯国昭に組閣を命じた。小磯は満州を見捨て戦力を中朝国境に集中させ、これを「絶対国防圏」と称した。その呼び名は無実ではなく、中国軍はその年中に豆満江を越えることが出来なかった。

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日本軍の撤退により、中日戦争は事実上の休戦状態となった。米海軍を相手にする日本海軍に中国大陸への上陸作戦を行う余裕はなく、中国国民党の基盤である沿岸部の民族資本が脅かされることもなくなった。また、満州を再征服したことは、蒋介石の権勢を不動のものとし、張学良は念願かなって東三省に帰還することができた。

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満州に残された数々の先進技術や資料などは、張学良の手で回収され、南京へ回されていった。日露戦争以来、日本がかの地で積み上げてきたものはここに来て全て水泡に帰し、却って敵を利することになったのである。


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Last-modified: 2019-10-22 (火) 20:58:23 (23d)