原野の闇

王道楽土の人柱

関東軍はもともと独走傾向が強く、満州事変前後には「日本国籍を捨ててでも王道楽土の建設に邁進」などと豪語した集団である。陸軍中央では、関東軍の統制を強化すべく東條を関東軍憲兵総監として派遣し、北支派遣軍と統合する計画を立てていた。廣田内閣はこれに加えて中華民国との紛争状態を解消すべく平和条約の締結に向けて動いていた。廣田は蒋介石を支援と指導者としての正当性を承認することで、満蒙問題における譲歩を引き出そうとした。

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四相会議で承認されたその方針は、すぐに御前会議における天皇の承認を得、中華民国側に打診された。張学良らの強い反発にも関わらず、対共産党作戦を継続したい蒋介石の反応は良く、無事に「日華基本条約」が締結された。日本側はその条約を履行すべく北支派遣軍の兵力の一部を一端満州に撤退させそこで関東軍と合流させた。

荒木の影

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だが、条約締結に対する関東軍の憤慨はあまりに大きく、永田や林の命令に一切応じようとはしなかった。東條は一端新京を離れ北支派遣軍分遣隊のある錦州に向かったが、その途上で東條は耳を疑う報せを受け取った。関東軍が憲兵隊を排除し新京を制圧したのである。

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列車内で報せを受けた東條は、そのまま北支派遣軍の実力を以て新京を奪還するように要請したが、皇道派にも深い繋がりを有する牟田口廉也少将らはこれを拒否、関東軍に同調して遼東半島を制圧してしまったのである。

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この時、現地軍威嚇のため派遣され同地にあった<金剛>以下数隻は反乱軍に拿捕され、艦隊内で彼らに同調的な兵たちによって艦が運用された。国を守る盾となるべき彼女たちが、あろうことか敵に回ったのである。

越境

錦の御旗

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内地では直ちに戒厳令が敷かれ、出征準備が進められた。朝鮮軍は速やかに越境を開始したが、皇軍相撃つ状況に躊躇いを覚える兵も少なくはなく、討伐戦では多数の死者が出た。状況を打開すべく討伐軍指揮官には皇族から東久邇宮稔彦王が派遣され、討伐軍は彼を錦の御旗として吉林省に進撃した。

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関東軍は無論、正規軍に叶うべくも無かったが、実戦経験が豊富で馬賊あがりの騎兵を用いるなど機動力に優れた奇兵隊であった。陸海軍中央は、彼らとの戦いを開発したばかりあるいは実験中である兵器・戦術の格好の試験場と考えて運用した。その結果得られた戦術データは、後に日本の戦車・航空機開発に資することとなる。特に新京奪還後には、進退窮まった反乱軍側がソ連から強力な火砲や戦車を得て用いたこともあり、陸軍は師団火力と戦車性能の向上に多大な労力を費やすことになる。宮本顕治ら共産主義者たちも、この戦乱に乗じて活動を開始、内地もまた戦場が如き混乱に、再び陥りつつあった。

衝撃と恐怖

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実戦経験不足により苦戦したものの、討伐隊は最新兵器と航空兵力の力で攻め上っていった。だが、日本中の目が満州に向く中、手薄になった帝都では左右を問わずテロリストの活動が活発化していた。混沌とした情勢下の1937年10月、廣田弘毅首相は凶刃に倒れた。短期間で二度も首相が暗殺されるという最悪の不祥事、それは日本の政治環境を著しく変貌させた。


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Last-modified: 2019-11-04 (月) 00:45:07 (11d)