地下壕の中で、男は12年も前の展覧会の記憶を呼び起こしていた。その展覧会は、今地下壕の存在するベルリンを取り囲む敵、日本の古美術をテーマとしたものだった。彼はかつて日本に駐在し、その時のレポートで哲学の博士号を取ったほどの日本通だった。

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彼は第二次世界大戦が始まる直前まで、日独が提携出来るものと信じ、それを実現するために活動していた。古美術展覧会もその一環であったが、その後日本が英国を支持したことで全ての努力が水の泡になり、彼自身も失脚し遠ざけられていた。だが日独が実際に砲火を交えるようになったことで、彼は敵情分析の任務を与えられて総統の近くに舞い戻ったのだった。

「驕れる人久しからず、ただ春の夜の夢の如し…」

総統は彼の期待通り日本美術に対し熱心だったが、その価値観に対する理解は期待通りとはいかなかった。ヒトラー総統の価値観においては、日本人に絵画などの芸術や音楽など、新しい文化的な価値を生み出すことなど有り得なかったからだ。日本人などは世界史において中華文明や欧州文明の猿真似しか出来ない連中のはずで、日本文化についてヒトラーがそのオリジナリティを評価していたのは天皇制だけだったし、その他の大半のものについては「何百年かかってもドイツには追いつけない」はずだった。そのように思っていることをヒトラーが日本側の代表に話したとき、その日本人が平然と笑みを浮かべていたときの不気味さを、彼はよく憶えている。

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ヒトラーが唯一興味を示したのは平清盛の像で、ヒトラーは様々な表情を浮かべながら像をずっと見つめていた。今思えば、一代で太政大臣にまで上り詰めた男の姿と自分を重ね合わせていたのかもしれないと彼には思えた。だがそんなことを思い出すのは、ヒトラーが総統の地位に上り詰めたことではなく、清盛が位人臣を極めた後に東から攻め上った頼朝に敗れたように、ヒトラーもまた敗北者として歴史に名を刻みつつあるからだった。そしてその敗北が彼自身だけではなく彼の所属する共同体に破滅を齎したという点でも、ヒトラーと清盛には重なり合う部分があった。

「猛き者も終には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ。」

更に言うなら、共同体の滅亡を見ずして死亡するという点も同じ顛末には違いない。清盛が都落ちの後の屋島の合戦前に熱病で死んだように、ドイツの軍事力がまだ残っているにも拘らずヒトラーの健康状態も既に深刻であり、やぶ医者モレルの力では延命することもままならないだろう。つい昨日、恐らく敵の新型爆弾であろうが、総統地下壕を襲った大きな揺れも不吉だった。彼は今ちょうど、その爆弾の影響をその目で確かめようと地上に出るところで、部下が差し出した傘を受け取った。爆発に関係があるか不明だが、黒い雨が降っているらしかった。

ワルシャワ条約機構

リーヴとリーヴスラシル

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〈ヒンデンブルク〉の巨体は粉々になり、吹き飛ぶ構造物と一緒に男たちの身体が海に投げ出されていくのが見えた。〈ヒンデンブルク〉はなお「目標」に向かって前進を止めることはなかったが、これ以上攻撃を加える必要はない。なぜならその前進は純粋に慣性によるものであり、下手な位置で止めてしまったならば、その重量と巨大さ故に他船の航行や生存者救助の障害となってしまう。かくして独瑞連合艦隊は悉くヴァルハラに転進し、スウェーデンは戦う理由を失い、日本帝国もまた矛を収めたのだった。

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日本政府は、東欧の欧州連合国と同様に、スウェーデンに対し対独協力者の引き渡し以外は何も求めなかった。ドイツ艦隊を庇護した国王が自らの戦争責任追及を求めたときでさえ、日本政府は彼を戦犯として裁こうとはしなかった。それは矢尽き刀折れるまで戦い抜いた者への礼賛であり、武士の情けであった。無論それは勝者に許された傲慢ではあったが、戦後のスウェーデン統治を円滑に進めたいという欲を成就するために有効な方針であることは確かだった。スウェーデン国民には敢えて日本軍と敵対する意志は見られず、寧ろウラル戦線へと転進していく日本軍に兵站協力を申し出るなど友好的な関係が初めから存在していた。

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それは隣国・フィンランドでも全く同じといえた。フィンランドは成り行き上第三次世界大戦における敵同士になったが、そもそも同盟国として冬戦争を戦った仲である。「連合国間で結ばれた条約と、領土、人口に関する協定を有効なものとして認め、これらに関する紛争は当事国同士の間に締結される新しい条約によって解決する」という日本政府の方針によって、フィンランドはソ連によって奪われたラップランドだけでなく、独ソ戦の成果として得たコラ半島の領土も回復することが決められていた。

インテルマリウム二つの海の間

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一方で日本政府のこの方針により損をした国もあった。例えばルーマニアは所謂「ウィーン裁定」の結果として失ったトランシルヴァニア地方及びクラヨーヴァ条約で失ったドブロジャ地方を回復することが出来なかった。第三次大戦の勝敗の結果、ハンガリーはルテニアを、ブルガリアはマケドニアを失ったけれども、ルーマニアから獲得した地域の領有が保証されたことで穏便に降伏を受け容れることが出来た。ルーマニアは更にベッサラビア地方をも失い、ほぼ1878年のベルリン会議で承認された領土へと逆戻りしている。以後ルーマニアは、大国に頼らない独自の外交と安全保障を模索し苦闘することになるが、同様の状況を共有したのが、中央の雄・ポーランドであった。

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ポーランドは、日本が戦後の中東欧の国境を策定するにあたり最も頭を悩ませた相手であった。ポーランド人は、その優れた数学の才能を惜しみなく日本帝国のために捧げ、神戸や横浜、室蘭など日本各地で移民社会を築き活発な経済活動を行って地域に貢献してきた。だが彼らの望み通りの国境を作ったとしても、それは再びドイツとの国境紛争の火種になってしまう。新しい国境は必ず独ポ両国が最終的解決と認めるものでなくてはならなかった。

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難しいドイツ・ポーランド・日本の交渉の末、ポーランドはベラルーシの領土とリトアニアに対する主権を認められる代わりに、ポーランド回廊やプロイセン地方への主権を手放すことに合意した。ドイツはポーランドがホロコーストを始めとする占領政策によって受けた損害と戦災を補填する、あらゆる物的支援を行うことに同意した。日本はポーランドがバルト海に影響力を持てるよう、クライペダに大規模な港湾を整備することと旧式艦船の譲渡を約束した。

ブリュンヒルデの涙

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ドナウ川・鉄門

また、バルカン半島においてはより複雑な政治的状況が出現していた。クロアチアとセルビアの対立を始め火薬庫とも称される複雑多様な地政学的条件は、この地域における国民国家の出現を困難なものとしていた。しかも三度の世界大戦の中で常に大国にその独立を弄ばれてきた地域の諸民族は、不安定な自治よりも平和を、抑圧的な独立国よりも自由を求めるようになっていた。そこで彼らは、幣原と英国のチャーチルが構想していた「ドナウ連邦」の枠組みに加わることで、その両方を達成しようとした。

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民族はそれぞれ名目上は国家(日本流に言えば「国と地域」)であり、しかも自治の程度はアメリカ合衆国の州と同等のものが手に入れば十分だった。それよりドイツやロシアに対抗しうる強力な国家を手にしたかった。彼らはドイツ人やロシア人に利用されることに疲れ切っていた。彼らは外国人から「四重帝国(オーストリア=ハンガリー=チェコスロヴァキア=クロアチア)」などと揶揄されながらも、それに耐えて第一歩を踏み出したのだった。彼らを君主ではなく「大統領」として支えたのは、ハプスブルク家長・オットー・フォン・ハプスブルクだった。かつて不本意ながらオーストリアを「オストマルク州」としてドイツに差し出してしまったシュシュニックの悲願は、形は違えども叶ったのである。

NATO北大西洋条約機構

権力の空白

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欧州中東部の国境が日英によって一応は調停されたことに対し、第三次大戦の当事国の多い西側国境こそ危険で不安定な状態に置かれていた。まずドイツの占領下にあったベルギーでは、国王に対する国民の不信任によりその帰還が叶わず、フランドル地方とワロニア地方の対立関係を収める権威がドイツの敗戦によって消滅してしまっていた。アメリカはコンゴを国王の私有地として返還し、そこに一応「ベルギー」を立てたが、本土に対しては何の影響力も持つことが出来なかった。

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またフランスは日本の戦後構想に真っ向から反発し、しかもヴィシー政府をフランスの正当な権力ではなく、更に「フランスは敗戦国ではなく、AEUGの一員かつ戦勝国としての権利を得るべき」と主張して日本と真っ向から対立していた。彼らを後援していたアメリカは、未確定地であったアルザス・ロートリンゲン地方を占領してフランスに与えた。流石にフランスの要求通りにラインラントまで占領することは無かったが、それですべての問題が解決されたわけでもなかった。たとえば南仏の一部地域はスペイン軍による占領状態が続いていた。イタリアでは王政が廃止された結果、与党キリスト教民主主義を支援していたアメリカのイタリア政界に対する影響力は高まり、米仏伊三国は米国の圧倒的経済力と軍事力を背景に日本帝国に対抗することが出来た。

大英帝国の分断

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ウェストファリア条約

英国本土では市街戦やロケット攻撃からの復興と、日米への天文学的な借款返済を同時に達成すべく急速な復興が必要であった。これを達成すべく設けられた各地域の自治組織には強い権限が与えられていたが、そのことは大英帝国にとって、かつて30年戦争終結の代償として神聖ローマ帝国に与えられた「死亡診断書」ことウェストファリア条約のようなもの、という解釈がカナダをはじめ英連邦各国で拡がり、彼らの強い反発を呼んだ。逆にスコットランドやアイルランドでは自治権に対する好意的な解釈が強く、自治権を与えられたことで将来的な独立が阻害される、という懸念の声を除けば概ね歓迎されていた。

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こうした日本と本国の政策に反発した英連邦諸国の多くは、日本に政治的かつ軍事的に対抗するため、アメリカ合衆国の力への依存を深めていった。トルーマン大統領はこうした国々を纏めるためグラナダで会合を開き、NATO(北大西洋条約機構)を設立し露骨に日英同盟に挑戦する構えを見せた。日英側もワルシャワに「解放」した諸国の代表を集めWTO(ワルシャワ条約機構)という軍事同盟を発足させた。それは事実上ドイツの再軍備を認める体制であり、フランスは国境の向こうに明確な脅威を感じるようになった。

タタールのくびき

ソ連崩壊

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フランス・アメリカと西部における対立が深まる中で、日本はアメリカに対し優位を得るため行動を急ぐ必要があった。ウラル山脈に集結した日本軍とウクライナやコーカサス三国の部隊は、宣戦布告と同時にソビエト連邦領内へと雪崩れ込んでいった。中国軍との前線に主力が釘付けになっていたソ連軍は奇襲攻撃に対応できず、ほぼ全ての部隊が前線で壊滅状態に陥り、無防備なまま東へと退却していった。

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スヴェルドロフスク=旧エカテリンブルグの工場

日本は既に第三次大戦で国力を限界まで吐き出しており大国との全面戦争を遂行する余力が無かったため、限定的な戦力を以て短期間で戦果を挙げるためには電撃作戦しか道はなかった。しかし中国との10年以上に亘る戦争で人的資源も、弾薬や食糧さえ払底していたソ連軍は日本軍とまともに戦うことすら出来なかった。開戦からひと月も立たない内に中央アジアの大部分と、西部の大都市チェリャビンスクを失陥したソ連は、同地に保有していた兵器工場から武器の供給を受けることが出来なくなり、急速に軍事力を崩壊させていった。

ユーラシア帝国の野望

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中国軍によるノヴォシビルスク攻撃を、中国軍の兵站が伸び切っていたことが功を奏して、辛うじて凌いだソ連軍だったが、南方から殆ど損害を受けないまま突進してきた第38軍によって市は占領され、ソビエト連邦は事実上消滅した。

ノヴォシビルスクに到達できなかったことにより、中華民国の版図にシベリアが加わることは半永久的に不可能となった。しかも気づいてみれば、中華民国は日本の占領地域や同盟国に全方位を囲まれ、海の出口は強力な日本の機動艦隊に抑えられていた。中華民国と日本帝国は対等な同盟国である、ということは日華基本条約の精神であるが、経済的には明らかに広大な市場によって包囲された中華民国が下位にあることは疑いようがなく、そのことは中華民国がアメリカ合衆国に政治的・経済的に接近する強い動機となり得た。ソ連の滅亡は中華民国を膨大な軍事負担から解放したが、既にその影響で深刻化しつつあったインフレーションと経済圧力は中華民国の経済を危険な水準まで追い込んでしまっていた。

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また日本は旧ソ連地域に、アメリカが画策するようなユーラシア全域に跨るロシア国家が半永久的に復活しないよう「タタールのくびき」を復活させようとしていた。まず戦争前から日本が支援を続けていたタタール系分離主義者によって西部に「トランス・ウラル共和国」が建設された。ウラル国はかつてのイデル=ウラル国を後継国家と称する連合国家であり、政府を支配するのはタタールを代表する非ロシア系の有力者たちであった。彼らは中ソ戦争の間、ベリヤの目を盗んで着々と力を蓄えつつ、日本政府と繋がって国家建設の準備を進めていたのだった。

一方東部に建設された「シベリア共和国」はロシア系住民が主流の国家だった。だが独ソ戦以来、中央政府により戦争に駆り出されたあげく飢餓状態で放置された彼らは、ロシアという国家概念を寧ろ現状では抑圧と考えていた。兎にも角にも彼らが必要としたのは第一に食糧と水、そして寒さを凌げる家や燃料であってロシアへの無限の忠誠ではなかった。彼らは、仮にその分断が永久のものとなるとしても、安全保障上の脅威と全体主義が齎す恐怖や不安から解放してくれる「シベリア」を選んだのだった。

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日本人は同様にロシア・コサックに自由と資本を与える代わりに彼らをウクライナ国へと組み込んだり、フィンランドにラップランドの大部分を与えることでロシアの力を徹底的に削いだ。日本人は彼らをも「タタールのくびき」として100年は利用するつもりだった。いつかロシア人が復興を遂げた後に再び強力な権力国家を築いたとき、彼らに対抗するための連合軍を結成するための準備がこの時完成したのだった。そしてそれは、21世紀に新たな男がロシア平原を手にした後、現実のものとなるのだった。

侵略

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ソ連という大敵に戦い抜いた中華民国にとって唯一かつ最優先の使命は膨大すぎる軍隊と軍事費を削減することだったはずだが、蒋介石総統と雖もそれを一朝一夕に実現するのは難儀なことである。兵たちが手に職を持つことなくただ故郷に帰ることを命じられたならば、彼らは戦争中の武勇伝で妻や子供たちをうんざりさせるごく潰しどころか、軍隊で学んだ暴力性を武器として犯罪者かテロリストになってしまうかもしれない。しかもその数は最大で1000万人と数えられることさえあった。

しかも対外的な状況は、安易な軍事費削減を許さないものに変化していた。借金返済のカタとして売られたインド、ステップの草原、シベリアから満州、インドシナ半島、そして太平洋。全ての出口は日本帝国によって固められ、軍の存在無くしては日本帝国に対する独立を維持することもできない恐れがあった。

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現状打破のために蒋介石が選んだ道は、内的な改革ではなく征服だった。蒋介石はおよそ10年ぶりに、中央政府に従わない共産党系の軍閥やカンデンポタン政府に対する軍事行動を開始した。それはヒマラヤの向こうでインドを支配している日本人に、中華民国の軍隊を「見せる」ことで中華民国を脅威として認識させ、欧州情勢に釘付けになっている日本政府から可能な限りの譲歩を引き出すことにあった。


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Last-modified: 2020-01-18 (土) 02:08:23 (40d)