負け戦

議会の抵抗

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国民が戦争に熱狂する一方、帝国議会の議員たちは比較的冷静に状況を観察していた。近衛の議会に対する影響力は、首相就任の経緯もあって限定的だったといえる。また政党出身で衆議院に所属する議員の多くは、今回の戦争を近衛の失策と見做していた。特に戦争協力を求める近衛に対する政友会・鳩山一郎らの抵抗はすさまじく、戦後政界における与党・民政党の一強体制を切り崩す意図もあり、鳩山は民政党の町田総裁に反近衛新体制運動への協力を呼び掛けていた、

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町田忠治は秋田藩士の家系出身の政党政治家で、農林大臣や商工大臣といった閣僚を歴任して実績を残してきた男である。彼が日ソ戦の最中である1940年において、与党のトップでありながら首相の地位にないのは「憲政の常道」が満州事変以来廃れていたからである。しかし彼の存在は帝国議会において党派を超えて「現在最も首相たるべき人物」として認められるほどで、少なくとも近衛が議会の敵としてあるうちは、衆議院の殆どは彼の味方であった。

リトル・ウィリー

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また、戦況も近衛の思うようには進展しなかったが、「満州への全面侵攻」を想定していなかったソ連側の準備不足もあり、日本軍は南満州で辛うじて踏みとどまることに成功した。畑陸軍大将によって防衛線は立て直され、満州の日本人が朝鮮半島に脱出する程度の時間を、日本軍は稼ぐことができた。また、満州への全面侵攻は中華民国政府を強く刺激し、中国軍は実力でソ連軍を排除しにかかった。

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ソ連軍は攻めあぐねている(どころか逆襲を食らっている)フィンランドから主君スターリンの目を逸らすため、中国軍の参戦を「帝国主義者たちの共同謀議」と主張してこれの速やかな粉砕を進言した。スターリンはこれを容れて、ジューコフ将軍の機械化軍団を増強した上で日本軍への全面攻勢を命令し、それは忠実な将軍によって直ちに実行された。迫りくるソ連戦車の巨体に対し日本兵たちは肉弾攻撃を勇敢に行ったがそれではどうしようもなかった。参謀総長になっていた永田は、フィンランドの善戦により却って戦争の幕引きが難しくなり、しかもそれでも最終的な勝利が望めない状況にあって日本が採りうる策はただ一つと理解していた。

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永田は、それが無秩序な逃亡ではなく計画された撤退となるよう慎重に、部隊を順番に後退させていった。日本軍師団はぎりぎり戦闘能力を保った状態で、平壌、京城、釜山へと撤退することに成功した。同時に、満鉄や朝鮮総督府といった日本の重要組織も内地に引き揚げられた。

敗北を抱きしめて

「解放」

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日本が朝鮮半島における全てを失ったとき、近衛はようやく敗北を受け容れざるを得なくなった。スターリンは大陸からの全面撤退と治安維持法の撤廃などを求め、日本政府はこれを実行した。海上戦力の圧倒的優位だけが、スターリンの列島征服を阻んだ。

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北方領土以外は寸土たりとも侵されなかった日本国民は、突然の敗北の報せと、ボロボロになって帰還した敗残兵の姿に唖然とせざるを得なかった。

軍国主義への反動

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驚愕は失望に変わり、失望は希望を裏切った軍部や近衛を始めとする右翼への憎しみに早変わりした。

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つい最近まで反戦論者を非国民・国賊として非難した大衆の中で、ある者は共産主義運動の支持者に、またある者は権威主義やその他の信条も失ったノンポリへと変貌していった。特に「無敵皇軍」の地方におけるスポークスマンであった在郷軍人会などが被った権威喪失は著しく、それらの一部を支持基盤としていた政友会も、反近衛運動を引率していたにも関わらず大打撃を受けた。


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Last-modified: 2019-11-12 (火) 21:31:54 (30d)