ビルマの戦い

オペレーション・シャングリラ

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ビルマで作戦行動中のANZAC軍兵士たち

インドシナを「解放」した日本軍は、これを前哨基地として内地から動員した兵力を集結させていった。目標はビルマへの攻撃であり、それはドイツと中華民国の陸送ルートを遮断することで中華民国がドイツ製品よりも日本製品に依存するように仕向けるという目的もあったが、他にドイツ軍の兵力をビルマの密林や山岳地帯で消耗させるという目的も持っていた。

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日本軍は決して、劣勢下において戦いを挑まなかった。常に持てる兵力を最大限投入し、優勢な状況でのみ交戦した。それは、日本軍がソ連との戦いで学んだ「格上との戦い方」だった。海岸のドイツ軍は後退し日本軍は橋頭堡を得たが、ドイツ軍はビルマ中部マンダレー付近に戦力を集中させ、逆襲の機会を窺っていた。

クシャトリア

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日本軍の攻撃を受けたとき在印ドイツ軍の本拠地はラジャスタン州にあり、「ア・バオア・クー」と名付けられていた。その守備に当たっていたマンシュタイン将軍は、前線(ビルマ)とア・バオア・クーの距離が遠すぎることを懸念しており、総司令官のロンメルに対し前線を下げることを要求していた。

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それに対しロンメルは、日本軍が集結しきる前にこれを叩くことを主張し、譲らなかった。だが日本軍はロンメルの目を欺きながらマンダレーを囲むように戦力の配置を完了させていた。

マンダレー突出部

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1946年の夏に行われた日本軍の攻勢は、明らかに威力偵察の規模を越えており、その排除のためロンメルが周辺の戦力を投入したことで大規模な会戦となった。

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こうして生起した一連の戦闘は、ビルマ中部を失陥しなかった、という点でロンメルの戦術的勝利ではあったが、日本軍の意図がドイツ軍をビルマに拘束し消耗させることにあったという点では、明らかに日本軍の戦略的勝利であった。ロンメルが気づいた時には、ドイツ軍の背後、ベンガル地方へと敵の装甲軍団が侵入しつつあった。

東海岸大攻勢

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ロンメルは慌てて麾下の軍団を転進させたが、ベンガルのデルタ地帯やマニプル州の山岳地帯を抜けるには時間がかかり、日本軍に逆襲に備える時間を与えてしまっていた。

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また日本政府の支援を受けたアウン・サンらが率いるゲリラの活動は、地域事情に疎いドイツ軍の兵站に大打撃を与えていた。州都ダッカを占領している日本軍への反撃は、メグナ川を利用した日本軍の防衛陣地と予想外の戦闘力を持つ三式中戦車改や五式中戦車の奮闘により失敗した。

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マンシュタインは、あっさりロンメルを見捨てた。彼は残存兵力で西部の日本軍に奇襲を行いカルカッタに迫ったが、そこで攻勢限界が見えてくるとあっさりと兵を退いた。できれば兵だけ回収してロンメルには死んでもらいたいとさえマンシュタインは思ったが、ロンメルはヒトラーの命令に助けられ航空機でア・バオア・クーまで帰還してきた。

総統命令

文化追随種(ヤパーニッシュ)

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ヒトラーの非難の矛先は失敗したロンメルよりも、マンシュタインへと向いた。敗北に激怒したヒトラーはア・バオア・クーの将兵に対し、「下等人種である日本人に対し、寸土たりとも譲ってはならぬ」などと徹底抗戦を命令した。マンシュタインにとって不幸なことは、彼の異議申し立てが通らなかったことではなく、ロンメルが命令順守をヒトラーに誓約したことのほうだった。

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ロンメルは陸軍のエリートではなく、中産階級から下級士官として入隊した男で、その点が貴族のマンシュタインと違ってヒトラーに気に入られている点であった。しかしそれは彼の無能さを示すものではなく、マンシュタインのようなタイプではなくとも、ロンメルは当代最高の将帥の一人であった。日本軍にとって強敵であることは言うまでもなく、日本軍もまた実績のある、優秀な将帥を当てて勝負していた。

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東條英機と今村均両大将を東西の総司令官とし、麾下に栗林忠道陸軍中将など実戦経験の豊富な指揮官を加え、敵将ロンメルとア・バオア・クーの攻略に全精力を注いだ日本軍は、敵が望んでいるであろうヒンドゥスターン平原での決戦を避け、まずデカン高原で攻勢に出て、敵の側面を確保するように行動した。

荒野を走る死神の列

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ロンメルは落ち着いて日本軍の攻勢を受け止めつつ、ア・バオア・クー中心に満遍なく防衛線を敷き、デカン高原以南の防衛には頼りにならない同盟国の部隊を配置して遅滞戦闘を行わせた。同時に海軍に要請して包囲下にある南部の部隊の回収を行わせた。

だが、ドイツ海軍は日本海軍の主力艦が捕捉できないことを理由に積極的な行動に出なかったし、この方面の主力であるイタリア海軍は少ない燃料を惜しんで碌に出撃せず、一度日本海軍の目を盗んだと思って出した輸送船団はオマーン沖で角田覚治中将率いる〈伊勢〉〈長門〉によって散々沈められてしまった。ロンメルは、南部の味方を丸ごと失ってしまった。

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海軍力の不足は、ロンメルにとって別の致命的な危険をも意味していた。ドイツ軍の補給路は、海上を除けばバローチスタン地方に集約されており、海上からの攻撃に対しあまりにも脆弱だった。ロンメルは、補給路の複線化のため、アフガニスタンへの侵攻を本国に打診したが、折しも欧州の政治的統合、即ち《欧州連合》の設立に忙しい本国政府の反応は鈍かった。

ガンジス川の戦い

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しかも総統の命令に反してデカン高原をタダで敵に奪われたロンメルには、後が無くなっていた。彼は決戦を避ける日本軍の目をア・バオア・クーから遠ざけるため、再び東部ビハール州南部からガンジス川沿いに攻勢を実施した。南北に分断されることを恐れる日本軍もそれに対抗して周辺から戦力を投入しダルバンガー近辺で大規模な戦闘が発生した。

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ビハール州の戦闘でロンメルが驚いたのは、脆弱と思われた歩兵師団の強靭さだった。敵の二等兵が高等数学の問題を解いた、という部下たちの噂も信じられる程、敵砲兵の射撃は正確だった。その上数も多く、威力も高い。日本兵は、宗教の教義に対するそれと同程度に、作戦目標への強い執着を見せていた。捕虜への尋問の結果、隊内における私的制裁は他の軍隊と比べて特別多いというわけではないと分かっていたから、その強い目的意識は日本人特有の精神性か教育によるものだと考えるしかなかった。

だがロンメルは、日本軍の士気に舌を巻きつつも、その弱点に迫りつつあった。作戦完遂に強い拘りを持ち闘志にも不足の無い反面、戦術はわが軍に非常に近くしかも教科書的。要するに読みやすいのだった。日本兵は戦闘機械の中の歯車として、与えられた任務を細部まで正確に表現できるが、予想しない展開にはひどく脆弱である。こうした弱点を意識したドイツ軍の機動は、ベテランの巧みな指揮統制に助けられながら日本軍の前線を押し通っていった。

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ガンジス河流域で起こった一連の戦闘がドイツ軍優勢で進む中、日本艦隊はバローチスタンへと迫りつつあった。イングランドの旗を掲げた「欧州連合海軍」の駆逐艦が悲壮な決意を持って日本艦隊に切り込んできたが、彼女は〈松〉級駆逐艦のの放った魚雷であっさり沈んだ。〈伊勢〉らに加え〈大和〉〈武蔵〉に背後を守られながら、〈赤城〉〈飛龍〉は艦載機を発進させ、上陸部隊を掩護した。守備に当たっていたドイツ、ルーマニアとトルコ軍の部隊は、日本軍機と砲兵によって煤だらけにされた後、塹壕内でハチの巣にされた。つまり、ロンメルの作戦はタイムオーバーとなったのだった。

名将起つ

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上陸部隊に対してマンシュタインは策を巡らせた。日本軍の動きは素早く、彼らはすぐにアフガニスタン国境まで到達するだろう。ならば彼らの動きを抑制しつつ、主力が東部から舞い戻ってくるのを待つしかない。あわよくば、本国がペルシャに送り込んだ増援と我々で、日本軍を挟撃できるかもしれない。

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それが難しいことは、彼自身理解していた。インドは広大で、兵力の集中などと言っても、進むにも引くにも時間がかかるからだ。恐らく、ペルシャにはいくらかの兵力が同盟国から送られるだろうが、それは間に合わないし、日本軍に打撃を与えることなど叶わないだろう。

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だが、それでもマンシュタインは彼の出来る限りの防衛を行っていた。ア・バオア・クーに対する第三波として行われたカーティヤワール半島への上陸は阻まれた。日本軍は東西の戦線が合流するのを待たねばならず、ア・バオア・クーの総攻撃まで2か月もかかった。


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Last-modified: 2019-11-20 (水) 00:19:52 (23d)