迷走

平民宰相

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その暗殺事件の全貌は一般には良く分かっていない。ただ知られていることは、少なくとも実行犯はすぐ捕らえられ処刑されたことと、逮捕を指揮したのがかつて皇道派青年将校グループに所属していた、安藤輝三少佐だということだけである。噂のレベルにおいては、廣田の政敵だという寺内寿一や近衛文麿が黒幕、中共の作戦である、頭山満が関わっているとか、いろいろな説が後に浮上した。ともあれ、後継首班には近衛文麿が選ばれ、近衛が廣田内閣の閣僚たちを引き継いだ。

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廣田弘毅という男が首相になれたのは、彼が庶民出の「背広が似合う男」だったからである。軍部と政党の対立が高まっていた時代にあって、その中道を行って乱高下する日本政治を軟着陸させていくのが彼の任務だった。廣田自身、そのことは心得ており、それだけに組閣にあたって天皇からかけられた「名門を崩さぬように」という言を気に病んでいた部分があった。廣田の死後、それを知った昭和天皇は廣田について「悪いことをした」と侍従に漏らしていたというが定かではない。しかし廣田の死に対し「彼を守ってやれなかった」と昭和天皇が責任を感じていたことは後の世に知られる事実である。少なくとも、その思いがその後の昭和天皇の政治姿勢に大きな影響を与えていたことは言うまでもない。

マネキンガール公爵

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一方で近衛文麿という男は、紛うことなき「貴族のボンボン」であり、閣僚の中でもとりわけ生い立ちに苦労の多い外相・吉田茂とは折り合いが悪かった。第二次満州事変終息後、日本政府のソ連に対する警戒心が最大限まで高まる中、近衛はドイツ・イタリアとの防共協定締結に動いたが、吉田はそれに猛反発している。それは吉田が、ドイツへの接近は吉田や廣田が進めてきた英米との協調外交を水の泡とすると危惧したからで、最終的に形だけということで締結はされたものの内容面では内・外務省の抵抗により実効性の無いものとされた。

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この一件で怒り狂った近衛が吉田を解任するよりも早く、吉田は外相を辞して英国植民地を巡る外遊に出て、それから2年以上祖国に戻らなかった。近衛には吉田のそうした人を食った態度がやはり気に入らず公職からも追放しようとしたが、それは外務省側のサボタージュによって叶わなかった。とにかく目障りな存在が消えてせいせいした近衛は、今度はドイツ主導ではない、日本独自の対ソ包囲網を構築することにした。後任に指名されたのはロシア事情に明るいと見られていた佐藤尚武であったが、彼も就任に当たっては対中平和外交・対英米関係の改善(=新九か国条約体制の追認)を近衛に約束させてしまった。

日波防共協定

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新しい防共協定は、オリジナルの防共協定と異なり完全な軍事同盟である。参加国は日本・ポーランド・フィンランドの三国で、特にポーランドは東欧の雄として強大な軍事力を誇り、ソ連に対する大きな障壁となるはずだった。近衛はヒトラーがミュンヘンにおいて成した「これ以上の領土拡張は行わない」という口約束を馬鹿正直に信じており、ポーランドに対するヒトラーの野心など想像もしていなかったのである。近衛は突然ドイツとの外交関係が悪化していく状況にただ首をかしげるばかりだった。

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しかも近衛の「防共協定」に怒りを覚えた国家はドイツだけではなかった。イギリスはヒトラーの野心など当に見抜いており、既にチェコスロヴァキアが崩壊した時点でドイツとの戦争を覚悟していた。イギリスは、日本に灸をすえる意味で、ポーランドに日本との軍事同盟を破棄しなければ独立を保障しないと迫り、ポーランドはあっけなくこれに折れた。近衛の防共協定は日本とフィンランド二国間の同盟に成り下がり、ソ連に対する実効性は限りなく低くなった。

世界大戦再び

雪中の奇跡

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1939年8月末、ドイツがソ連と不可侵条約を結び、ポーランドに最後通牒を突き付けた時、近衛はようやく事態の深刻さを理解した。だが日本政府は既にフィンランドに対し軍事顧問団だけでなく装備や弾薬などを送り込んでおり、その引き揚げは容易ではなかった。ポーランドがたった三週間で敗れ去り、ソ連軍がフィンランドや東三省との境界付近の兵力を増強した時点で、それは全く捗っていなかった。「日本の支援がある」ことで勇気づけられていたフィンランド政府は、ソ連からの屈辱的な要求を全面的に拒絶し、ソ連軍はフィンランド領内へと進撃を開始した。

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この「冬戦争」において、各国は支援を模索したが実行できたのはスウェーデン・イタリア・日本ぐらいなものであった。だが信じられないほど高い士気とマンネルハイム将軍の戦争指導によって、少なくとも序盤はフィンランド軍は戦争を優位に進めていた。しかしそれは、東方即ち満州方面に割かれたソ連軍が多い分フィンランド方面の兵力が(大国の基準において比較的)手薄ということを意味していた。

ノモンハン事件

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予想外の苦戦に対しソ連は日本政府にフィンランド支援を止めるように求めた。近衛はそれを受け容れて戦争を回避しようとしたが、一方で満州の日本軍兵力を増強していることが露見し、ソ連政府の態度硬化を招いた。年が明けた二月、ヴォロシーロフ将軍の解任にともなって戦術を変化させたソ連軍は、東方においてもジューコフ将軍に命じて、ノモンハン方面で進出しつつある日本軍の撃滅を命じた。

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ソ連軍の圧倒的な戦力に対し、後手に回った日本軍は全く歯が立たなかった。ソ連軍には当初満州を征服するという意図はなくせいぜい日本軍に一撃を与えるという程度の構想しかなかったが、日本軍があまりにも早く瓦解したためソ連軍は期せずして満州奥地に進撃する羽目になってしまった。そのスピードはソ連軍の用意した兵站では全く追いつかないほどだった。周辺海域においても、ソ連潜水艦の活発な活動は日本海軍を苦しめ、潜水艦という新時代の脅威を強く意識させた。

報道統制

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それにも関わらず、日本国民の大半は戦況が自軍優位に進んでいると認識していた。戦場の様相は、日本放送協会総裁という肩書を持つ近衛の権力により封鎖され、代わりに「無敵皇軍」の神話が巷に流布されていた。

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本来は「東洋のケインズ」と称された高橋是清や岡田内閣、そして廣田内閣の功績とされるべき景気好転も、近衛の政策によるものと吹聴された。

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時に兵士たちの家族、国内外の人脈を通じて戦況を知る者、社会主義者や自由主義者、あるいは単なる平和主義者が戦争を非難した場合、「その他大勢」の日本人たちは各々に「国民の代表」として反戦論者を道徳的な悪、宗教的な悪として排除した。


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Last-modified: 2019-11-06 (水) 19:32:03 (8d)