諸民族の戦い

オデッサ作戦

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マンシュタインの思惑通り、日本軍はコーカサスのドイツ軍に対処するため、兵をドイツ本国から転進させねばならなくなった。ドイツの領土を目前にして、最低限の守備隊を残して、日本軍はついにドイツとの決戦に踏み切る決断をした。何としてもコンペイトウは守られねばならない。コンペイトウの側面には既にドイツ軍が迫りつつあり、彼らの斥候がコンペイトウへの進入路を探すため、周辺の高所からコンペイトウの推定位置の観測を開始していた。

この決戦に際し日本軍が用意した解答が『オデッサ作戦』だった。日本軍は第一段階でクリミア半島を強襲し、第二段階でアゾフ海を電撃的に渉り、第三段階では側面を顧みず南ロシアの平原を爆走した機械化軍でコーカサスのドイツ軍を包囲する。

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日本軍がカスピ海に到達した時点で、七段構えとされていたコンペイトウは既に四段目まで突破され、既に五段目の防衛ラインまで後退しつつあった。朴少将率いる韓国軍第八師団が再び殿を務め、施設を爆破・封鎖しながらドイツ軍の侵攻を遅らせ続けていた。その間、日本軍が反撃を開始し、丁度ドイツ軍の多くが地下に侵入しきったタイミングを狙って敵側の地上の入り口から逆に侵入し反撃を開始した。更に間一髪で間に合った重爆《連山》の改良型や《大洋》の編隊がドイツ軍の地上の増援を阻んだ。

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戦況は、乱戦に持ち込むことに成功した日本軍に有利に傾いていった。未だ要塞が健在であり守勢にある日本軍に対し、攻撃側のドイツ軍はもともと負担が大きい。最終的に攻勢限界に達したドイツ軍は敗走し、ロシアへの脱出を図って北へ北へと向かっていった。グデーリアン将軍が包囲下にある軍の指揮を任され、彼は再び本意ではない守勢作戦に身を投ずることになっていた。マンシュタインから、作戦の真意を内密に聞かされていた彼は出来得る限りの抗戦を行うつもりであったし、日本軍もペルシアでの苦戦の経験から包囲下の軍に対し最大戦力を投入するつもりでいた。

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ペルシア側からも攻勢が行われ、クルド人を始めアゼリ人、アルメニア人、アッシリア人やトルクメン人など中東の少数民族で構成された部隊を投入するなど、戦況はまさに中東諸民族のナチズムに対する復讐戦になっていた。日本軍は戦後、多数派であるアラブ人や少数ながら世界に強い影響力を持つユダヤ人に支配力で対抗するため彼らを最大限利用するつもりでいた。楽園を約束された彼らは死に物狂いで戦い、その戦力としての価値を証明して見せた。

日米地位協定

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一方、ドイツではマンシュタインが《ゼダンの門》という防衛戦の準備を完了していた。《ゼダンの門》は正確にはゼダンの門本体(イタリア・フランス方面)とグリュプス線(ドイツ方面)の二つに分かれて構成されており、東部戦線に関してはその広大な土地そのものが日本軍に対する障壁として期待されていた。実際、中東やギリシアから長大な補給線を抱えたまま、ドイツ軍を相手にしつつ、ロシアを征服するのは困難で、必然的にエゥーゴの力点は《ゼダンの門》に集中していった。

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日本軍はここで、良いとは言えないアメリカ軍との関係を改善しようと試みた。アメリカ軍は、ドイツとの死闘を勝ち抜いてきた日本兵から見れば、ドイツ兵やイタリア兵、イギリス兵と比べて明らかにやる気のない連中と見えていた。彼らは同盟国である日本の慰安施設に土足で侵入しそこの女を犯した上、金を払う代わりに彼女の陰部へと唾を吐きかけたことさえあった。日本兵もまた、米兵の存在を無視して大砲や機銃を撃ち込んだり、保安隊が米兵に公然と報復を仕掛けるなど明らかに戦力として見下した態度を取っていた。
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しかし《ゼダンの門》を巡る戦闘はドイツ兵も死兵となって抵抗してくることは明らかであり、凄惨な戦闘が予期されるため米軍の戦力は非常に重要であった。日本軍はイタリア戦線を救うことを決め、栗林大将にその任を預けた。

市街戦

ドイツ国民軍 Deutscher Volkssturm

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《ゼダンの門》に対するエゥーゴの全面攻勢作戦は、力点をその都度移しながらドイツ全体を取り囲むように機動するという動きから「渦巻」、即ちメールシュトローム作戦と名付けられた。ロンバルディアとオーストリアに侵入したエゥーゴ軍はドイツ国内深くに浸透するよりも手薄なシュワーベン地方からゼダンへと抜けていった。

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ドイツは前線の兵力を維持するため、老人や、国家の維持に必要という理由で前線から遠ざけられていた医師や看護師、技術者さえも兵士として武装させた。彼らの多くは訓練不足で、激しい戦闘が起こるたびに敵前逃亡を繰り返した。正規兵たちはそれを咎めず、時にひっそりと故郷に帰れるようにさえした。

艦隊決戦

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エゥーゴ軍はゼダン付近で守りを固めつつ、フランス方面は少しずつ押しながら、主力を北海へと打通させた。北海からネーデルラントへ新たな補給拠点を設けるため、イギリス海峡の制海権を奪取すべく帝国海軍は出撃し、〈瑞鶴〉など三隻と引き換えに〈ハンザ〉、〈ゼーレヴェ〉などを擁するドイツの空母艦隊を撃滅し、大西洋の航路を安全なものとした。

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この大敗でドイツ第三帝国の滅亡は最早ドイツ人にとっても明らかなものとなった。ドイツは中央政府の統制を離れて権力が分立する状態に陥りつつあり、シュタウフェンベルク大佐を計画者とする一連の反逆行為が失敗に終わった後、そのクーデターの参加者はモスクワに逃れ、現地で国防軍による統治を開始した。ゲーリングは本国を失った後もエゥーゴに抵抗するため、ブリテン島に渡って独自に交戦準備を始めた。ヒトラー自身は心身の衰弱が激しく、地下壕に籠りきりでただ無意味に報告を右から左へ聞き流すだけの存在となり果てていた。

ベルリン包囲戦

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マンシュタインは巧みに兵力の消耗を避け、兵を東へと少しずつ逃がしていた。マンシュタインがボヘミアの守りを油断なく厚くしていたため、交戦を望む者はポーランドやオストプロイセンを安全に通過しモスクワへと逃れることが出来、投降する者は咎めを受けることもなかった。投降者の多くは捕虜への酷な扱いで知られるアメリカ兵の多い西部戦線より、東部まで移動して日本軍に保護を求めた。更にその多くは、ナチズムに反感を抱く者達で構成された自由ドイツ軍に加わって、日本政府の支援を受けながら祖国解放の戦列に並んだ。

その結果、ドイツ本国は全面的にアメリカやイギリスではなく、ドイツに比較的寛大な条件を提示していた日本に占領された。ロシアに未だ強力な兵を残しているという弱みは、日本政府にドイツに対する穏当な占領政策を敷かせる圧力となっていた。強硬姿勢をとればそれだけ北欧やロシアで日本人や朝鮮人が死ぬことになり、包囲下にあるベルリンの市民も忽ち兵士に変わっていたであろう。

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日本軍は、政府の定めた占領統治方針に忠実に従い、ベルリンへの安易な攻撃を行わなかった。むしろ市民が困窮しないよう、民生品に限って提供することさえあった。謂わば「敵に塩を送る」行為であったが、それは確実にドイツ兵を孤立させ、戦意を奪っていた。だがこれを良く思わないアメリカの行為が、これらの全てを台無しにした。


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Last-modified: 2019-12-09 (月) 21:49:03 (286d)