第四革命

軍政再び

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チベット侵攻は、蒋介石の存在が軍部を完全にコントロールしきれないことの表れとも言えた。日本に中華民国を脅威として認識させる、という彼の目論見は成功していたが、かつて国内問題として2.26事件や軍部との政争を経験してきた日本にとって、中華民国で伸長する軍国主義は蒋介石が考えていた以上に日本人の危機感を煽ってしまっていた。しかも中華民国軍の力はいとも簡単に、外の敵ではなく内側に向かうようになってしまっていた。

中国軍の専横は、戦時中から既に見え隠れしていた社会の分断を一層加速させてしまっていた。制憲議会は「中華帝国」の幻を求めて軍部に同調する軍国主義者と、自由主義・社会主義者らが多いハト派による政争の場と化し、蒋介石は「超然主義」という覆いに隠された部外者に甘んじていた。重税とインフレーションにあえぐ国民は軍事行動への協力を拒み始め、軍隊は彼らを力で押さえつけようとした。

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日本政府の懸念は中華民国の軍事国家化という単純な問題だけではなかった。中華民国が危険な存在であると認識しながら、それによって日本政府の軍事的・政治的負担が増すことを期待してフランスやアメリカが公然と中華民国の軍事行動を支持し始めたことは日本政府にとって明確な圧力となった。アメリカは中国の動乱を、東アジアの大国としてその安全保障を担う立場にある日本が責任を果たしていないから起こったもの、と日本を非難した。フランスは事実上日本政府が統治権を掌握しているインドシナ半島を「中華民国支援のための前哨基地」として利用するために同地への再進駐を試みていた。

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東インドにおいても、フランスと利害の一致するオランダによる帝国主義的支配は続き、日本政府により支援された民族主義運動とオランダ人の総督との対立が続いていた。フランスに呼応したオランダは、現地の独立運動を切り崩すため東インド領土に国家としての体裁を与えた。それは民族主義者の求める「統一国家」とは程遠い分断国家であり、連邦を構成する諸邦はオランダの傀儡政権に過ぎなかった。

世界を滅ぼす力

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ここに至って日本政府は、米仏との協調が最早不可能であると悟った。最悪のケースとしての第四次世界大戦を避けるために、偶発的な衝突を避けるあらゆる手段が策定されるとともに、いつか起こるそれに勝ち抜くための戦略、具体的にはICBMとそれに搭載可能な反応弾頭の完成が急がれた。

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それと同時に、中華民国と対立する国家への資金や武器の援助も行われた。ブータン、ネパールやザンスカールといったチベット文化圏にある諸王国や、チベットへの独自支援を行っていたタイ王国がその対象となり、彼らを通じ志願兵と装備が次々と中華民国へと侵入していった。

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その中には日本の情報機関の工作員もおり、中華民国内では彼らと米国機関の暗闘が激しく行われていた。中華民国の公的支援を受けられる米国機関は、中華民国の行政機関や財閥系の大企業を拠点として中華民国が米国の政治的・経済的支援を受けられるように活動したため、日本の初期の工作活動はこれを阻止することを目的としていた。だが広大な中国大陸の大半を占める「内陸」を味方につけた日本政府がその広大な国境線のどこからでも工作員を送り込めたのに対し、米国の窓口は沿岸部に限られており、それは強大な日本海軍により容易に特定されてしまっていた。

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「地の利」の差で米国に優位に立ちつつあった日本側は工作活動の方針を転換し、蒋介石と中華民国軍を経済的に破壊する方法を編み出した。質が低く偽造の容易な中華民国の紙幣が大連の秘密工場で大量に刷られ、それは工作員と共に中国大陸内に流れ込んでいった。既に軍事公債の度重なる発給によりインフレーションが中央銀行によるコントロールの限界に達しつつあった中国元は大暴落を始め、生活の困窮は直ちに政府への不満として爆発していった。兵士たちの中にも農村の出身者は当然多く存在し、貧しい家族を養うために身体で稼いでいるような者たちは当然、現状に心を痛めた。郷里の同胞や親兄弟を射殺せよ、と命令された彼らがそれに従う理由はなく、兵士たちの士気は下がる一方だった。

阻止限界点

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発砲出来ない兵士たちに代わって暴動を鎮圧するため、民国軍は農村出身者の割合が少なく沿岸部の比較的裕福な地域の出身者で構成された部隊を投入した。彼らは今までの戦争においても前線で中核を担った精鋭であった。農村からの補充兵ばかりの部隊は逆にチベット戦線や沿岸部の警備に回されたが、それは中華民国とって重要な中核地域を危険に晒すことになった。

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実際、蒋介石が気づかない内に危機はコントロールできるレベルを越えてしまっていた。チベット高原での戦争はアジア各国の介入により実に三か月にも及び、圧勝を期待されていた中華民国軍の評判は地に堕ちた。首都南京で行われた凱旋式に参加する兵士たちの表情は暗い。凄惨な戦闘の最中に女子供や僧侶たちさえ手に掛けPTSDに罹った者も多い中で、肝心のダライ・ラマをインド側に逃がしてしまったことは、政府と軍の指導部に対する不信感に直結していた。

シビル・ウォー

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凱旋式のその日、議会派の指導者たちは制憲議会を占拠し、首都に集結した帰還兵たちに反乱を呼び掛けた。故郷の困窮と無意味な戦争にうんざりするほど付き合わされた兵たちの一部は内に秘めた怒りを爆発させ、官邸や中央省庁を占拠し蒋介石を拘束してしまった。首都を抑えた議会派は胡適を指導者として選び出し、各地の部隊に反乱への参加を求めた。

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訪日した孫文

反乱によりその地位を失った蒋介石は、一度台湾に逃れたが日本政府の待遇から自分が彼らにとって既に用を成さない人物であることを悟ると、次にアメリカ合衆国を頼ってハワイに逃れた。ハワイは孫文が故郷を離れて最初に学んだ地であり、蒋介石もここから再起せんと図ろうと考えたのであった。一方、彼を追放した胡適らの支配もまた、完全ではなかった。彼らが掌握できたのは巨大な軍の内の一部に過ぎず、その他大勢の部隊の帰属は定かではなかった。

切り取り次第

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中央政府の混乱を好機と見たシベリアでは、シベリア共和国軍から支援を受けた民兵組織が次々と立ち上がり、指揮系統を失った中国軍を打ち破っていった。胡適は早々に軍を再編してシベリアの秩序を回復しなければならなかったが、チベットや陝西省など西部方面に展開していた軍の動きは鈍く一部の部隊が中央の統制に抵抗したため、十分な増援がシベリアに届くことはなかった。

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チベットでは三か月前には不十分な量しか届かなかった支援物資がようやく充実し始め、中華民国による征服から一年もたたない内にチベットは国家としての領域を回復していた。抵抗組織チュシ・ガンドゥクは併合前にカンデンポタン政府が支配していた地域だけでなく、中華民国の実効支配を受けていたアムド・カム両地方の領有を目指して侵攻していた。

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またモンゴルでは徳王が内蒙古の独立を目指して挙兵し、蒙古連合政府が組織された。徳王の組織もやはり内蒙古だけではなく内外モンゴル高原の統一を目指して侵攻を開始したが、これらは明らかに中華民国の弱体化が招いた事態だった。

分離主義の勃興

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不甲斐ない中央政府の状況は、当初クーデターを孫文の唱えた「訓政」から「憲政」へ移行する第四革命として歓迎していた勢力を失望させるに十分だった。南方では独自の軍事力を組織することに成功した新広西派が息を吹き返し中央政府を支持する動きを見せ反政府勢力への攻撃を開始したが、中央政府の動きは鈍いままだった。

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胡適はこの状況においてもなお大総統としての独裁権を発動することには躊躇いを見せていた。彼は単に動乱を終結させ少なくとも北伐後の中華民国の領域だけは再統一したいと考えていたが、そのためには国内の敵対勢力だけではなく日本の動向にも注意を払わなければならず、軽率な行動は慎まなければならなかった。しかし傅作義が反旗を翻し北平を占領したことは、彼から手段を選ぶ余裕を奪うこととなった。なぜなら傅作義が勢力拡大を狙ったあげく南京ではなく奉天を目指した場合、日本軍が本格的に軍事介入してくる可能性があったからだ。

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だが傅作義の軍隊は北へは向かわなかった。傅作義にとっての敵は議会政治であり、傅は中国大陸は強い男によって統一され、他国を凌駕すべきと考えていた。彼は自分か、あるいは自分自身にその器がなければ、清朝の皇帝家を拝して君主制を復活させることさえ視野に入れていた。満州に侵入しなかったのは中国の情勢如何ではかの皇弟・愛新覚羅溥傑を北平に迎え入れてもよいと考えていたからであり、そのために彼を天皇家に準ずる王家の長として保護している日本政府とは良好な関係を保たねばならなかった。傅の進むべき道は南京に向かっており、目下の障害はその進路上にある張国の「革命勢力」だった。

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張国はかつて中国社会主義革命の方向性を巡って毛沢東らと対立し下野した男であった。農村の教化を目指した毛沢東の理論は、裕福な家庭から都会の大卒エリートになった彼にとって時代遅れで、田舎臭いものでしかなかった。長征に際して毛沢東・周恩来を敵とした政争に敗れた彼は共産党を除名され、その後は国民党に転向し社会主義理論を応用した戦時経済建設で頭角を現していた。
国民党政府内で力を付けていた彼は、第四革命を自らにとって遂に中国史の主役となるチャンスと捉え行動を開始していた。

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張は第四革命の存在を肯定した上で、胡適ら議会派の行為を簒奪だと非難した。彼は財閥やプチ・ブルジョワへの直接的な非難を避けて、戦時中に築いたその人脈を基に中華民国軍・革命勢力双方と誼を通じて着実に力を蓄えていた。厳しい戦局の中で民国中央が殆ど南京のその周辺以外の地域に影響力を及ぼせなくなると、彼は故郷である江西省へと戻って、彼自身の手で「中華革命党」を打ち立てたのだった。その名はかつて孫文が東京で同志たちと共に結成した政治結社と同じであり、自身が(蒋介石経て)を孫文の理想を実現する意志があると主張するための道具であった。

人間(ヒト)が安心して眠るためには

禁輸

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中国を謀略によって追い落とすことに成功した、と当初喜んでいた日本政府は、やがて予想外のスピードで中華民国政府が崩壊していく様に驚きを隠せなかった。特に蒋介石をアメリカに逃がしてしまったことは、明らかに日本政府にとって不利を齎す可能性があった。案の定米国政府は蒋介石と連名で日本政府を非難する声明を発し、敵対行動に対する制裁として金融資産の凍結や日米修好通商条約の破棄及び各国との禁輸を通告してきたのだった。

よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ

貿易の停止はそれを国家の原資としている日本にとって死ねと言われているに等しい。日本は大戦でアジア各国や中東欧まで勢力を拡大したが、それでも根本的に重要なのは太平洋地域の海運であり、アメリカの通告は日本にとって致命的だった。だが同時に、アメリカの要求を呑むことも出来るはずがなかった。インドシナ撤兵は日本にとって喉元に匕首を突き付けられることと同義であり、中国大陸についてはその現状を日本政府はアメリカ側が思っているほど把握出来ていなかった。

聖断降る

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1952年、日本政府は「最後のチャンス」に賭けることを決定した。改正後の憲法において他国への宣戦布告という国事行為の決定権は内閣総理大臣にあり天皇はそれに形式的な承認を与えるのみであったが、時の総理大臣・吉田茂は律義にも天皇に謁見し事前の相談を欠かさなかった。吉田は主君に「今までの世界大戦のような総力戦は後の時代には二度と出来ない」であろうことと、開戦のタイミングは米国の条約破棄に対し世論が憤慨している今しかない(と自分が考えている)ことを伝えた。憲法が天皇を形式的かつ象徴的な存在として規定したのは天皇を政治責任から遠ざけて守るためであるが、吉田は彼の主君、世界大戦の時代にたった一人で国を背負う平和主義者、がそのような安穏とした立場を望んでいないことを知っていた。

天皇は黙って吉田の話を聴き、核戦争の危険性について問うた。吉田は天皇に、日米戦争が間違いなく世界大戦になること、その戦いでは反応兵器が多数用いられることを予言した。その場合、フォン・ブラウン博士やドイツの研究成果を独占しICBMの開発に成功している自分たちが確実に有利になり、米国が一発目の反応弾を使用した時点で彼らの負けが決まると告げた。従って米国が「反応弾を使わざるを得ない」状況即ち同盟国を急速に危機に陥れることが重要であった。天皇は二、三の質疑応答の後「相手があの爆弾を落としてくるのを待たねばならないのか」と嘆いたが、少し間を置きつつ、はっきりと開戦に同意すると言った。

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こうして開戦が規定事項となると、日本軍は海軍力を太平洋に集中する必要に迫られた。大西洋における米艦隊の牽制を求めるため、日本政府が天皇を通じて英国政府・女王エリザベス二世と連絡を取り開戦の決意を伝えると、英国政府は日米の間で完全に割れた。

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だが直後に北仏に米国が反応弾を搭載した大型爆撃機を搭載したことが判明すると、大英帝国もまた開戦の決意を固め、ドーバー海峡に機動艦隊と航空団の配備を進めた。しかし最早形だけとなった大英帝国の構成国の反応は鈍く、実際に戦争が起こっても大半は米国側に立つであろうことは確実だった。

アイゼンハワー・ドクトリン

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時同じく1952年、大統領選を制したドワイト・D・アイゼンハワーは議会に対し、所謂アイゼンハワー・ドクトリンを発表した。彼は合衆国によるドイツとの戦いを賛美し、ナチス・ドイツやソビエト連邦の滅亡を「民主主義の全体主義に対する勝利」と規定し、同じ政治体制を持つ同盟国に軍事的・経済的援助を与えることを約束した。それはアメリカ合衆国がかつての孤立主義と完全に決別したことの現れであった。彼はまた「民主主義にエンペラーは必要ない」とし、天皇制を維持している日本は民主主義国家としての資格を持っていないと非難した。また日本人は帝国主義的で世界を自らの天皇(エンペラー)に差し出そうとしており、アメリカにとっての脅威であることを強調した。

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アメリカの人種暴動の一幕、焼身自殺した黒人を眺める白人たち(1919年)

吉田も、勿論負けてはいなかった。吉田は盟友イギリスが王冠を戴きながら議会制を発展させていった歴史を引き合いに出しつつ、有色人種やネイティブ・アメリカン出身者への政治的迫害を続けている国に、民主政治を代表する資格は無いとやり返した。それは彼の義父で2.26事件で凶弾に斃れた牧野伯爵がかつて人種差別の撤廃を唱えた際にアメリカ合衆国がそれを握りつぶしたことへの意趣返しでもあった。吉田はさらに、アメリカが中南米やアフリカを支配している現状はまさに帝国主義的ではないかと問うた。それは吉田の挑戦状であり、必ずしも米国との対決を望まない彼ですら決意を固めていること自体が日米戦争の不可避なるを示しているかのようだった。


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Last-modified: 2020-01-29 (水) 18:38:12 (162d)