英独同盟

ローマの輝き

https://imgur.com/P7vHhLM.png

米国の政治的混沌は、イタリアに孤独な戦いを強いた。イタリア人は同盟国の支援無しに、未だ北イタリアの戦線を維持し続けていた。ドナウ連邦にとって戦争目的とでも言うべき旧オーストリア帝国領土(ロンバルド=ヴェネト王国領、チロル地方)はイタリア軍が半分以上を確保し続けていた。イタリアの戦争目的は領土の維持そのものではなく民主主義体制と独立の維持であったが、それゆえにこそイタリア軍の士気は高かった。しかしフランスが本土を失陥したことで、フランスを突破してきた日独軍の主力がイタリア軍の背後に迫りつつあった。

https://imgur.com/YrtiMtc.png

フランス軍はまだ頑張り続けている同盟国イタリアを見捨て、行政機構と可能な限りの兵員と装備をアフリカに脱出させる決定を下した。だが海軍が壊滅していたためそれを自力で実行することもできず、見捨てた相手のイタリアに輸送船や輸送機をチャーターする様な体たらくであった。フランス領土の内で低地地方にある領域はフランドルとワロニア共和国に占領され、イタリア軍も背後に浸透しつつある日独軍の攻勢を防ぎきれなかった。

https://imgur.com/HTi0b52.png

イタリア軍の主力は完全に首都と分断され、各部隊も連携が立たれていた。ロンバルディアが占領された後もトレンティーノを保持し続けたのはイタリア人の意地であったが、逆に言えば今までの戦いで消耗し続けたイタリア軍が日独多軍に優越するのはその点だけであった。しかしその奮闘ぶりは、勝者になりつつある彼らにイタリアの底力・有用性を認めさせるに十分だった。思えば第一次大戦前にはドイツと二重帝国はイタリアを同盟者として歓迎していたのであり、戦後フランスやスペインが自分たちと敵対するであろうことを考えれば、イタリアを必要以上に分割し弱体化させるよりは、ある程度の勢力として残しておいて味方にするほうが得策とドイツやドナウ連邦の首脳は考えるようになった。

https://imgur.com/ozQEMHk.png

こうした認識の転換は、北イタリアの戦闘で主力を失ったイタリア軍が抵抗力を持たず、従って対イタリア戦争が終結しつつあるからこそ起こったものであった。第二次・第三次大戦で甚大な被害を被ったイタリアに再度動員をかける力は残っておらず、しかも現有戦力では戦線を押し返すことも出来なかった。イタリアはその後、アンツィオ-ナポリ地域を守る戦いで最後の奮闘を見せたものの、それに敗れた後は日本軍に首都ローマを完全包囲され、降伏するしかなかった。

ドイツ北米総軍

https://imgur.com/DwzZJ2g.png

アメリカ合衆国とその影響下にあるカナダを直接脅かすことができる存在は、日本のICBMだけではなかった。アメリカ合衆国にとって宿敵ともいえるドイツは陸軍だけでなく海軍・空軍においても旧軍関係者を厚遇しその技術体系はよく保存されていた。特に日米を凌ぐ性能を持つ潜水艦については、その発達した先端科学のノウハウが活かされた高性能な艦が建造され続けた。水中で高速性能を発揮可能なヴァルター機関を搭載したUボート戦隊は開戦当初より東海岸の情報収集に活躍していた。

https://imgur.com/eSdQf2t.png

彼らは時として犠牲を払うこともあったが、多くはその高速性能と熟練した操艦により貴重な情報を本国に持ち帰ることができた。だが何よりも、リヴァプールへの反応弾投下以来アメリカへの憎悪を募らせる英国海軍がドイツ海軍と協力して、その作戦行動を助けたことである。戦争も中盤に差し掛かると日本艦隊が太平洋で戦果を挙げはじめ、その損失補填と戦局挽回のため米海軍が大西洋を手薄にすることが多くなっていた。それを偵察により察知したドイツ海軍は本国において、英独共同で北米遠征軍を組織し北米を直接攻撃することを提案した。

戦勝ムード

https://imgur.com/PniseeW.png

それは旧大陸における戦闘が、既に終盤に差し掛かっていたからだった。フランス・イタリアは本土を完全占領され、一部の兵はベルリンやボンに引き揚げつつあった。ベルリンで行われた対仏戦勝パレードは、銃を持たない兵士と市民団体の共同開催という軍事色の薄まったものとして行われ、反応弾による惨禍と首都の地位を失うという屈辱で落ち込んだ市民感情に配慮したものだった。東京で同時期に行われたそれが「敵への復讐を成し遂げた」という野生的な喜びに満ち溢れていたのとは対照的であった。

https://imgur.com/Mfo1jCM.png

同様に、イベリア半島における日本軍の攻撃も容赦のないものといえた。フランス国家を完全に破壊するという目的もあってバスク人に与えられた広大な領土は、スペインをピレネー山脈から遠ざけフランスと強く分断していた。ポルトガルはもともと日本軍やドイツ軍に対抗できるほどの軍備がなかったため無条件降伏を受け容れざるを得ず、スペインもマドリードが陥落した後にはもはや何の抵抗も出来なかった。スペイン軍は強力であったが、フランス国内の戦闘に駆り出され時にはフランス軍以上に敢闘したが、本国領土まで撤退してきたときには消耗しつくしてしまっていた。

https://imgur.com/q2pQVlv.png

旧大陸における戦闘終結、特にジブラルタル海峡の安全が確保されたことは、日本の海運事業の再開にもつながっていた。戦争勃発と共に縮小されていた欧州との海運事業は復活し、貿易事業は回復し始めていた。イタリアやスペインといった地中海諸国だけでなく、アイルランドやスコットランドなどにも比較的安全な航路で復興のための物資を送ることが出来るようになった。前線の状況はどうあれ、混沌を極める中国大陸や北米に比べれば、日本列島は明らかに平時の安穏を取り戻しつつあったのだ。

革命の炎

裏庭の崩壊

https://imgur.com/5k2BXkl.png

1954年の初夏、スウィートウォーターから始まった反連邦政府運動は頂点に達し、カナダ国内にも勢力を伸ばしつつあった。一般に米加両国の太平洋側の住民は大西洋側の住民に比して日本軍の攻撃に対する恐怖心が強く、戦争の早期終結を望んでいるという点で一致していた。反連邦政府運動に対しては温度差があり、カリフォルニア州・オレゴン州などもともと非白人人口が比較的多くリベラルな傾向の強い州が強く離脱を主張した一方で、同様の傾向を持つワシントン州は合衆国に留まっていた。オレゴン州では連邦離脱派がまだ過半数を占めていなかったため州兵が中立を保った結果、州内の都市と施設から未だカナダ軍を撤退させることが出来なかったからだ。

https://imgur.com/x0qeREk.png

中西部の諸州はカリフォルニア州・サクラメントに代表を集め太平洋諸州同盟(Pacific-States-of-America)を結成し戦争からの離脱と独自の軍事力を持ったことをKGO-TV(サンフランシスコ所在のABC系列の放送局)で発表した。PSAは国家とも民間組織ともつかない曖昧な地位を持ちながらも、日本帝国、イギリス、ドイツの三国に使節を派遣し自らの「外交的立場」を表明するなど内実としては国家規模に劣らない組織ではあった。これに対し保守的な州の多い合衆国南部の指導者たちは危機感と野心を同時に覚え、PSAとは逆にアメリカ合衆国領土の不可分や人種差別政策、日本帝国との戦争継続などを目的とする州連合を結成していった。彼らは合衆国東部で勢力を拡大するニューディサイズを自らの軍事部門として受け容れることにし、アメリカ連邦(United-States-of-America)を「&ruby(Confederate-States-of-America){アメリカ連合}」として&ruby(Reform){再設計}する、として「弱腰な連邦政府」に敵対行動を取り始めた。

https://imgur.com/hXUNuJN.png

アメリカの分裂はそれまで彼らが裏庭と呼んで憚らなかった中南米の政治状況をも激変させた。戦争勃発直前の1953年7月にはアメリカの援助を受けて軍事独裁政権を樹立していたキューバのバティスタ政権に対する大規模な反乱が起きるなど、そもそもアメリカの支配は流動的で左翼民族主義的な思想や日本帝国の出現によるアメリカ帝国主義打倒への期待が中南米に広がりつつあった。尤もキューバの革命運動は日本帝国とその同盟国イギリスを帝国主義と見做していたが、日米開戦・第四次世界大戦の勃発が彼らにとってチャンスであることには変わりなかった。

https://imgur.com/36KT7c0.png

キューバの革命運動はバティスタ軍の大規模な待ち伏せ攻撃により壊滅し地下運動へと移行したが、他国では改革に繋がる例もあった。グアテマラでは親米軍事独裁政権を率いたウビコ将軍の系譜にある軍人たちとの闘争に打ち勝ったグスマン将軍が選挙戦を制し、農地改革を実施した。農地改革によってグアテマラの第一次産業に深く関与していたアメリカ企業は大打撃を受け、CIAはグスマン大統領を排除する謀略に手を染めていた。

ニカラグアではアメリカ側から「&ruby(pronunciation){words};」とまで言われたソモサ大統領が暗殺され、彼の息子がその政治権力を継承しようと試みて新聞社や労働組織、少数民族の自治組織などの弾圧を開始した。しかしこれに反発した諸派はサンディニスタ解放戦線を結成し、マナグアで1945年以来の盛り上がりを見せていた労働運動の援護を受けて、政権を奪い取った。ソモサが隣国に逃れアメリカの援助で政権奪回のクーデターを準備する一方、政府内部では民主化よりも産業国有化などの改革を優先する社会主義勢力が優勢となり、サンディニスタは野党として議会やソモサ派残党に睨みを利かせる存在となっていった。

王国の復活

https://imgur.com/Dj0rTah.png
ハワイ王家家長・カピオラニ王女

太平洋岸を失った米艦隊の根拠地はハワイ諸島に限定されていたものの、本土で拡がる連邦離脱運動がハワイ諸島の白人社会では拡がっていなかったため、米艦隊は戦力を保ち続けることが出来た。しかしその安定は、日系人やハワイ先住民、黒人たちをまるで敵国民のように扱い、収容所に強制的に入れることで達成されたものだった。ハワイ諸島に潜入した日本帝国の工作員は、滅亡したハワイ王国の王家の面々を密かに収容所から逃すことに成功し、彼女らをハワイの非白人系住民の旗頭として日本軍の占領政策に利用しようとした。

カピオラニ王女は安易に国家を裏切るようなことをしなかったが、日本軍に反対するわけでもなかった。彼女自身は王家の長として、民主主義的な王として、ハワイの住民が自ら選択することを待った。彼女の存在はあくまでも日本軍の数ある戦略の内の一つに過ぎなかったので、彼女の意志が日本軍のハワイ攻略を左右することはなかった。真珠湾に接近した艦隊が艦載機で真珠湾を攻撃している間に、上陸部隊が米海兵隊を駆逐して島々を占領下に置くと、根拠地を失った米艦隊は日本艦隊に決戦を挑まざるを得なくなった。

https://imgur.com/4LmYw2y.png

米海軍は手持ちの航空兵力の全てを投入し日本艦隊への攻撃を試みたが、米軍の搭乗員と日本軍の搭乗員には明らかに技量の差があった。もともと本国からの補給と増援が望めない状況で、米海軍の太平洋艦隊は搭乗機の損失を抑えるためにまともな訓練が出来ていなかった。若さばかりが取り柄の新兵たちは、不幸にも戦続きで熟達した日本のパイロットたちに一方的に狩られていった。制空権を奪われた米艦隊は一方的に叩かれ続け、今までの戦いで米海軍の防空陣形への対策を十分に行ってきた日本艦隊によって最新鋭アゾレス級航空母艦〈レンジャー〉以下所属空母全てが沈められるという最悪の敗北を喫した。

左派政権

https://imgur.com/dVvKTul.png

この勝利を受け、内地では対米戦勝ムードが高まると同時に、戦後の世界をどう統治するか、ということが輿論の関心事となっていた。1954年の冬に行われた衆議院選挙ではまさにそれが焦点となり、所謂小日本主義的な「小さな政府」を作って財政健全化を目指す保守派と、現状のまま「大きな政府」を維持しようとする日本社会党のような革新政党が真っ向から対立していた。どちらが勝利しようとも自らは政界を引退するつもりであった吉田茂内閣総理大臣がこの選挙に対しては無介入を貫いたことと、鳩山一郎以下何物も保守勢力を纏める力を持たないまま選挙戦に突入したため、連携が組めないまま候補者同士の潰し合いを演じた保守派に対し、日本社会党を中心に連立を組んだ革新政党側が勝利して与党となり、片山哲が後継首班の座に就いたのだった。

https://imgur.com/strVgXc.png

片山や日本社会党の面々は、第三次大戦の戦時経済運営のために社会主義理論を以て政府に貢献してきた経験があり、保守派が予想、というよりある意味では期待、していたよりも現実的な政策を提示することが出来た。思想面にいてもかつての社会主義路線一辺倒ということもなく、独ソ戦を切っ掛けにソ連社会の実態が広く知られたことやその後のソ連崩壊までの過程で、彼らの多くは共産主義と決別し今では社会民主主義路線に舵を切っていた。片山内閣の下では改正民法の制定や内務省解体、財閥解体など重要な改革がいくつも行われた。思想面においては、前述の改正民法によって封建的家族制度が法律上は廃止され、それは女性たちや地方の若者が第二次・第三次産業に進出する契機となっていった。

https://imgur.com/hijcyvM.png

片山内閣の方針は、既に膨大な軍事費が維持され社会保障費も増大したことで日本の財政支出を膨張させたが、それは今のところ第四次大戦の特需と市場拡大による税収増加によって相殺されていた。太平洋ではオーストラリア大陸がついに征服され、英国政府は豪州政府が統治していたニューギニアを日本が統治することを認めた。日本はそれをきっかけにインドネシアの市場に深く関与することになり、安価に求められる希少資源は、日本の産業界に莫大な利益を齎した。

https://imgur.com/m6LZsxM.png

広大なアフリカにおいても米仏の勢力が一層され、エチオピアでは日本に亡命していたアラヤ皇太子が帰還し、その領土を治めることとなった。日本の華族に連なる彼の治世に、「アフリカの角」の地域には日本企業が進出し、同地域はエジプトやアルジェリアなど地中海沿岸で英仏植民地であった地域を凌駕して、アフリカで最も発展している地域となっていった。日本企業が幅を利かせる市場は地球規模に拡大していた。

サンフランシスコ講和条約

https://imgur.com/LsDhp0f.png

ハワイが攻略され無防備な西海岸が日本軍の直接的な脅威に晒されることとなったPSAの指導部は、革命体制維持の難しさに直面することとなった。PSAがあくまでも「アメリカ合衆国」という表看板を掲げる限り日本帝国との戦争状態が続くことになり、その上で敗北すれば、PSAが望む「自由で平和な中西部」は日本帝国の北米支配のための道具に成り下がってしまうからだった。PSAはプライドを捨ててでも革命の精神を生かす道を選び、日本帝国に対し革命体制の解体と日本帝国の支援のもと共和政府を樹立し、その軍門に降った。

https://imgur.com/sLKeBxB.png

東部ではCSAが東部を制覇しつつあり支配地域が英独軍の占領地と接するようになっていた。CSA指導部もPSAと同じように自らの日本帝国と英独同盟軍の存在を至近に感じるように変わってきており、前線での偶発的な戦闘勃発に伴って彼らが介入してくることを防ぐため、一刻も早く勢力圏を確定しなければならなかった。PSAが日本帝国の軍門に降ったことはある意味でCSAにとってのまたとないチャンスであり、CSAは(PSAが日本帝国の後ろ盾を得たように)英独の監視下に入ることで戦争の終結を図った。PSAとCSAという北米の二大勢力が停戦に同意したことは両勢力の提携を一時的に可能なものとし、PSAとCSAのどちらがアメリカ合衆国(United_States_of_America)の代表であるか、という議論は棚上げにされた。

https://imgur.com/GI7HbD0.png
現役時代のニミッツ

前大戦の英雄・チェスター・ニミッツ退役元帥や両勢力それぞれの代表が寄り集まった「アメリカ合衆国政府の代表団」は西海岸サンフランシスコの湾内に停泊する〈播磨〉の船上で降伏文書に調印し、ここに第四次世界大戦は終結を見たのだった。

https://imgur.com/ZjfdZym.png
ドイツから旧ソ連製AK47を供給されたCSA兵

だがCSAを安住の地と見做し、これを利用し北米全土を戦闘国家に変えんと活動していたニューディサイズの将兵たちは、この平和を受け容れることが出来なかった。ニューディサイズは講和に傾きつつあったCSA指導部の翻意を求めて闘争を開始、CSA軍の討伐隊と激戦を繰り広げた。CSAの討伐隊はドイツ・イギリスの支援を受けたCSA政府から最新の装備を与えられていたものの、それを扱う兵士は徴兵逃れで州兵に属していた者や犯罪者などの寄せ集めだったため討伐隊は大苦戦することとなった。戦闘自体は特定の地盤を持たないニューディサイズは徐々に拠点を失っていったものの、やがてペンタゴンの占拠に成功し討伐隊との決戦に臨んだ。

https://imgur.com/l1NJCYL.png

ペンタゴンは反応弾攻撃後のワシントン周辺で機能していたUSA最後の拠点であり、今はCSAの軍事組織を纏める中心的な行政機構となっていた。ペンタゴンは同時にリッチモンドの防衛施設で、ここの占拠はCSA政府の喉元にナイフを突きつけるも同然の行為であった。しかしニューディサイズの目標は実は別にあり、ペンタゴン攻防戦はニューディサイズ内の主戦派に大義に基づく殉死を与えると同時に、残存戦力を彼らの受け入れを表明していたテキサスへと逃す時間稼ぎでもあった。この戦闘によりCSA内のニューディサイズは壊滅したが、彼らの大部分はCSAの支配の及ばない北部の自治区やテキサスへの脱出を果たし、21世紀にまで北米大陸の一大勢力としてその命脈を保ち続けた。

中華人民共和国の建国

核の冬の予兆

https://imgur.com/ncGsC6s.png

休戦協定の締結後、ドイツ軍は旧カナダ-アメリカ国境まで撤退しその後はCSA軍が占領地域の秩序回復を担った。新たにCSAが回復した領土(通称『回復領』)は、CSA政府が行った「講和の成果」というプラスの印象を持ったプロパガンダに反し、激しく荒廃していた。

https://imgur.com/KPtGoki.png

日本軍が放った反応弾の大爆発で、かつてシカゴの存在した場所に出来たクレーターは、五大湖を六大湖に変えつつあった。デトロイトでは建造物の破壊よりも放射性降下物による環境破壊を狙って核分裂爆弾が使用された結果、動植物環や水質は変性しヒトを遠ざけるようになっていた。ただ使用者の居なくなった防空陣地が、自分が何に対しその砲を向けているのかわからないまま黒い雨に撃たれ呆然と佇んでいるようだった。休戦協定において日英独がこの占領地域をあっさり明け渡したのも占領地の荒廃を認識し、その復興の負担をアメリカ側に押し付けるためであった。英独は領土を明け渡す代償としてニューイングランド地方を英独の管理下に置き、それを拠点として北米東部を支配した。

https://imgur.com/AgWK5vn.png

一方日本帝国はアメリカという厄介な敵が倒れたことで中国情勢にようやく本格介入する余裕を得ていた。介入の口実を探っていた折に雲南の少数民族・イ族やタイ族の権利が守られていない、という大義名分で雲南反共救国軍から日本帝国に介入の要請があった。片山内閣は統治能力を失っている現・中華民国に代わって、親日的かつ反米的な新しい政治権力を中国大陸に築くチャンスであると考え、軍に出動を命じた。中華民国は戦前よりアメリカから武器の供給を受けて軍事力を形成してきた過去があり、戦後もその技術体系を維持するためテキサスやCSAと同盟関係を復活させる恐れがあった。

南京大虐殺

https://imgur.com/jDB1RKy.png

日本軍の直接介入を受け華北では張国や傅作義による排日運動が激化し、当地の経済活動は妨げられた。傅作義による排日は形だけでいざ自身の勢力圏が脅かされるようになると彼はあっさり日本帝国と手を結んだが、張国と彼の中華革命党は簡単には帝国に靡かなかった。張国は傘下の組織に「日帝」への徹底抗戦を訴えた。

https://imgur.com/8SodnGr.png

だが張国は日本軍の上陸を防ぐことは出来なかった。それは戦闘というよりは殺戮に近い戦いとなり、張国の軍隊は日本軍に一矢報いるどころか、戦うたびに壊滅する体たらくであった。長江下流域への上陸に成功した日本軍は部隊を南北に分け、南軍は占領地の拡大を、北軍は南京への入城を目指して民国政府と交渉に入った。

https://imgur.com/xaYQVh3.png

ところが民国政府が日本軍の進駐を侵略であると非難し、配下の軍に南京の死守を命じたため、血気に逸った日中両軍によって戦端が開かれることとなった。戦闘は先の上陸戦に比べて遥かに激しいものとなり、戦闘員の死者だけで10,000名以上の死者が出た他、南京市街制圧までの過程で戦闘に巻き込まれるなどの形でその倍の死傷者が発生、後に「南京大虐殺」として張国らにプロパガンダとして利用される最悪の事態となってしまった。

張国包囲網

https://imgur.com/NQo1Wyf.png

南京から中華民国軍を排除した日本軍は、今度は南京占領を狙う張国軍と戦ったが、これは難なく退けられた。張国の軍隊はあくまでもゲリラであって正規戦においては脅威とは言えなかった。だが恐るべきは彼らが現に中国大陸の過半を支配しており、そして日本兵に対して悉く強い敵意を持っているという事実だった。

https://imgur.com/QqrVsWY.png

日本軍にとって朗報だったのは、中華民国からの離脱を願う周辺民族が日本軍に協力的なことであった。例えば蒙古連合を率いる徳王は外蒙古の有力者たちから張軍を排除するように求められていたが果たせなかったので、日本軍の介入を今か今かと待っていたのだった。傅作義もまた日本軍との非交戦に同意し、北平から内蒙古にかけての地域を日本軍が警戒する必要はなくなった。日本帝国はまんまと張国を中国大陸において孤立させることに成功した。

我らが求めた戦争

https://imgur.com/8K8zIGe.png

しかし苦境ほど、張国が求めたものはなかった。外敵の存在が強大であればある程「中国は侵略されている」というプロパガンダの有効性が高まり、張国に権力が集まるからだった。事実、日本軍との敵対を諦めた傅作義や旧中華民国軍兵士、そして新疆からの敗残兵が続々と張国の元に集結しつつあり、実力を付けた中華革命党は重慶において諸派の統合に成功し日本軍と真っ向勝負する構えを取った。

https://imgur.com/j7SztZr.png

日本軍はの侵攻は中央アジア-モンゴル方面、華北、南京方面の三方向から行われた。限られた手勢でこれらの全てに対処出来ない張軍はモンゴルと西部は捨て、華北では遅滞戦闘に徹した。南京方面では張が唯一決戦を志向したこともあり日本軍と激しい戦闘が行われ、その度に日本兵一人が戦死する間に20人の中国人が死亡する、という凄惨な戦闘が繰り返された。日本軍の損害は全く許容範囲ではあったが、戦闘の度に敵対心を増す中国人の存在とインフラの破壊が、日本政府に戦争の早期終結を図らしめた。

https://imgur.com/txEL8px.png

1955年の秋、日本政府は100日あまり続いた中国での戦争を終結させるべく動いた。既に沿岸部の支配は回復され、モンゴルやチベットの求める領土も占領することが出来ており、戦争を継続する理由が無かった。日本政府と張・楊虎城・周恩来といった中華革命党首脳部の交渉では、日本政府がしてこれらの地域の占領を革命党側に認めさせる一方で、軍を武漢以東まで撤退させるという条件での停戦を打診した結果、張国も広西派や傅作義といった勢力との戦いを優先させたいという願望に基づき、武漢まで獲得できるならばこれほどの好条件は無いと考え停戦を受け容れた。

日本政府は次に胡適らを南京において復権させ、あくまでも「中華民国」がこの世界にまだ存続していることを示し、中国に一定の秩序が回復されたという宣伝に利用した。満州においては溥傑が帰還し、日本帝国傘下の満州国が17年ぶりに復活させられたことで「中華民国」の正当性は早くも傷つけられたが、日本帝国の力の前に胡適らはこれを認めざるを得なかった。中国の分裂状態を解消し、張と彼の中華革命党を倒すためには、多少の犠牲は致し方なかった。「中華民国」にとってモンゴル・チベット・満州といった化外の地など、その対価として日本の有り余る軍事力と資本が得られるならば、いくらでも諦めがつくと彼らには思えた。


トップ   編集 凍結解除 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2020-03-16 (月) 03:15:13 (23d)