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1943年8月29日。ボリス三世は崩御した。葬儀が行われたアレクサンドル・ネフスキー大聖堂の通りには群衆が並び、ブルガリアの黄金時代を築いた国王の突然の死に国民は涙した。

ボリス王の弟、プレスラフ公キリルに兄の死を悲しむ時間は無かった。新たな国王になる甥はまだ6歳であるからだ。すぐに国の要人を集め摂政団を組織し、兄の愛した国と幼い王を守り立てる決意をした。

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しかし兄のようなカリスマ性やリーダーシップを持たないキリルには外圧を跳ね除ける強さは無かった。ブルガリアはボルス王の死から10日後、枢軸同盟への加盟を表明した。

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再三の要請を拒絶したブルガリアのあまりに遅い参加にドイツは厳しい態度をとった。イタリアもギリシャと戦っていたことを理由にしてセルビアとギリシャの分割を要求したのだ。

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セルビアの分割は要求された領土にマケドニアが含まれていたことから拒否したが、ギリシャ割譲は受け入れざるを得なかった。

さらにドイツはアフリカへの道を開くためブルガリアにオスマントルコへの宣戦布告を要求した。当初は拒否を続けたブルガリアだったがエーゲ・マケドニアにイギリスの軍艦と爆撃機が来襲し国民に犠牲が出た。

1944年4月に第二次独ソ戦が始まり戦争協力の圧力がブルガリアにかかると、国民の安全と東部戦線参加回避のため1944年6月にブルガリアはオスマントルコへ宣戦を布告した。

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オスマントルコも連合に加盟しエメル1世はムハンマド常勝軍を率い果敢に戦ったが最新鋭の戦車軍団に敗北した。首都イスタンブールは失陥しクレタ島に政府を避難させて抵抗を続けている。

イスタンブールの戦いは枢軸国からの空襲が頻繁に行われシルケジ駅は廃墟となった。

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アナトリアを突破したブルガリア軍は、アラブへと侵入して英国軍とも激戦を繰り広げてシナイ半島まで到達した。しかしスエズ運河の対岸は遠かった。

アフリカへの攻撃は中止されエーゲ・マケドニアには対空砲が並べられた。

戦争は終わらない。

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ソフィア市で出会った古老が語る。ボリス王の時代はギリシャとの戦争があったが、国民が覚悟したほどの被害はなかった。その後は戦争も無く、ソフィア市は物資も豊富で、繁栄していた。

外国人は一時でも戦争の空気を忘れようと、ブルガリアに旅行してトラムで街を観光した。食堂ではドイツ人とロシア人が同じ席で食事を共にした。負傷兵は温泉で体を癒した。ツム百貨店には買いたい物が何でもあった。誰もがこの国を羨んだ。

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今のこの国にそれは無い。シメオン王は幼く、キリル公が努力されているのは皆知っている。領土も当時より広がっている。ルーマニアやクロアチアよりはマシだ。ドイツ国民より幸福かもしれない。だが街を行く人にあの日の笑顔は無い。




ブルガリア領マケドニア西部にある小さな村から贈られた彫刻が、今もリラ修道院に眠るボリス王の傍に置かれている。

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"我らの王 解放者 ボリス三世陛下へ マケドニアはご恩を忘れません"


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Last-modified: 2019-05-05 (日) 17:21:22 (18d)