平和


「八百屋のご主人。この前の選挙で私に投票してくれたそうだね。どうもありがとう」
「お礼なんていいですよ。そうだ、当選のお祝いとして果物を差し上げましょう。そこの棚に並んでいる中から、どれでも好きなものを選んでください」
「ご主人。そうは言うが、あの棚には腐ったスイカが1つあるだけじゃないか」
「それでも私は投票したんですよ?」


我が闘争

252372599_org.png
 

1936年に第四インターナショナルが成立し、ソ連とフランスが公然と連携するようになった事は、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーにとって厄介かつ重大な問題であった。
東方生存圏の獲得を究極の目標とするヒトラーにとって対ソ戦は不可避のものであったが、「仏ソ同盟」が存在する以上、第一次世界大戦と同様の二正面作戦への発展が必至であったからだ。
こうした国際情勢の下、ヒトラーはまず仏ソ関係の切り崩しを画策し、それが困難と見るや東欧諸国との友好関係樹立・促進に方針を転換した。

この対東欧外交攻勢は、1938年にポーランドが防共協定に加入した事にも見られるように、一定の成功を収めた。
これによってドイツ東部国境の安全を確保したと判断したヒトラーは、西方侵攻の準備を国防軍に下令した。
つまり、ポーランドという盾が時間を稼いでる間にフランスを電撃的に攻略せよ、という事である。

この「冒険主義的」な戦争計画を、軍部は受け入れるしかなかった。
ブロンベルク元帥、フリッチュ上級大将の放逐によって国防軍は骨抜きにされており、
西方侵攻準備命令に反対したルートヴィヒ・ベック参謀総長(国防軍における反ヒトラー派の急先鋒)も辞任に追い込まれた。
ベックの後任となったフランツ・ハルダー将軍も反ヒトラー派の一員だったが、肝心なところで躊躇しがちで、参謀総長という地位にふさわしい影響力を発揮する事はかなわなかった。

軍をねじ伏せたヒトラーは戦争準備を着々と進めていった。
フランス侵攻に際しては第一次世界大戦と同様の、シュリーフェン・プランの焼き直しとでもいうべき計画案が提出されたが、
これに不満を抱いたヒトラーは再考を命じ、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン将軍による新作戦案が採用された。

そして1940年5月13日、ドイツはヴェルサイユ条約で失ったオイペン・マルメディ両地域の奪還を名分として、ベルギー侵攻を開始する。

252372612_org.png
 

侵略を受けたベルギーはそれまでの中立政策を放棄し、英仏に救援を求めた。
英仏はこれに応え、ドイツに最後通牒を発した後に宣戦布告。*1
両国それぞれの同盟国――英連邦諸国、ソ連、スペイン、中華ソビエト、日本――も参戦し、
さらにハンガリーとルーマニアがドイツ陣営に、チェコスロバキアが仏ソ陣営に加わり、戦争は一挙に拡大する。
(ただし、ユーゴスラビアは「ドイツとの同盟は防衛同盟であり、侵略戦争には加担できない」として、同盟破棄と局外中立を宣言した)

252372613_org.png
 

第二次世界大戦、その始まりであった。

第二次世界大戦

第二次世界大戦の西部戦線は、前大戦とはまったく異なる戦争――電撃戦として展開した。
ベルギー南部アルデンヌの森を突破したドイツ装甲師団は、フランス領へと侵入。
北方に配備されていたフランス軍をドーバー海峡に追い詰めて殲滅すると共に、パリを蹂躙した。
ボルドーへ脱出したフランス政府は徹底抗戦を叫んだが*2、その敗勢は明らかだった。

252372597_org.png
 

このフランスの苦境に乗じたのがイタリアだった。
イタリアの統領ベニート・ムッソリーニは当面は中立を維持するという当初の方針を覆し、ニースやサヴォイアなど旧領を取り戻すべくドイツの同盟国として参戦した。
この急な方針転換にイタリア軍(特にその上層部)は慌てふためく事となったが、それでもどうにかサヴォイア地域を獲得し、仏領チュニジアへの攻勢にも成功した。

252372590_org.png
 
252372591_org.png
 
252372592_org.png
 

イタリアの参戦は、その敵手たるイギリスにとって悩ましい問題となった。
英本土とインドとを結ぶスエズ運河、この要衝を背後に抱えるエジプトが、伊領リビアに駐留するイタリア軍の攻撃に晒される事になるからだ。
対独宣戦布告後に辞任したチェンバレンに代わって首相に就任したチャーチルは、新たに施行された徴兵制に従って根こそぎかき集められた若者を、エジプト防衛の為に北アフリカの砂漠へ送り込まねばならなくなった。

252372607_org.png
 

当然、フランスが敗北しつつある欧州大陸に上陸・派兵する余裕もなくなる。
海ではイギリス海空軍がドイツ生まれの灰色狼を相手に熾烈な戦いを繰り広げてはいたが、欧州戦線の趨勢はドイツとソ連という二大陸軍国家に委ねるしかなかった。

戦争とインターナショナル

だが、パリが陥落した1940年6月初頭の時点でソ連は未だ戦端を開いていなかった。
独ソ間にはポーランドが存在し、そのポーランドはドイツと防共協定は結んでいるものの大戦については中立を保っていたからだ。

既に参戦しているルーマニアとハンガリーを経由すれば、ドイツに併合されたオーストリアへの侵攻(あるいは仏ソ側に立って参戦したチェコスロバキアへの援軍)が可能となるが、
この侵攻路を採用した場合、補給線が危険なほどに長くなり、また、カルパチア山脈という難題も(文字通りに)立ちはだかる。
ならばバルト海を経由すれば良いかというと、その海上兵站線を維持・防衛する事はソ連海軍には荷が重い。
ソ連軍としてはポーランドを通過する事がもっとも望ましかった。

252372600_org.png
 

といっても、これはソ連がポーランド攻撃を志向していた事を意味しない。
少なくとも、当初の彼らはあくまで交渉によって、軍の通過をポーランドに認めさせるつもりだった。
第一次大戦と同様に第二次大戦もだらだらと塹壕戦が続くだろうと予想していたソ連首脳部は、ポーランドとの腰を据えた交渉を行う時間的余裕は十分にあると考えていたし、
わざわざ敵を増やす事もあるまいという、健全な(素直とすら言える)考えを抱いてもいた。

ところが、ドイツ軍の電撃戦がこうした思惑を吹き飛ばしてしまった。
ドイツ挟撃のパートナーであるはずのフランスは首都を失い、地中海ヘ向けて敗走を続けていた。
こうなると、もはや交渉などという悠長な真似はしていられない。早急に軍を動かさなければならない。ならば。

252372602_org.png
 

ポーランドとの交渉を打ち切ったソ連は、「ポーランド軍が行った砲撃」に対する「反撃」を軍に命令。
命令を受けた赤軍は、ワルシャワ、そしてベルリンを目指し、一斉にポーランドとの国境を越えた。

252372605_org.png
 

堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ

ソ連軍がポーランド領に踏み込んだ頃、極東においても新たな軍事行動が始まっていた。
日本赤軍による蘭印侵攻、「H作戦」である。

252372596_org.png
 

日本本土や海南島に集結*3していた日本人民陸軍部隊は、
重巡洋艦「古鷹」を旗艦とする人民海軍南遣艦隊に護衛され、インドネシアへ向けて南シナ海を南下した。

南洋に来寇した日本艦隊は数に劣るオランダ艦隊を一蹴し、本土から4,000km以上離れた多島海の制海権を易々と獲得した。
海上を支配した彼らはその事を誇示するかのように多くの島々――ジャワやスマトラと名の付いた大島から、バリやロンボクといった小島に至るまで――に兵士を上陸させ、砂浜に軍靴の跡を残した。
もちろんインドネシア各地に配備されていたオランダ軍はできうる限りの抵抗を行ったが、元より戦力差は日本赤軍に圧倒的有利である以上、その努力にも限界があった。
また、日本人が全てを奪い取る事を防ごうと英連邦軍も蘭印に軍を進めたが、彼らが獲得できたものはニューギニア島西部のみであり、その地域ですら日本と分け合わなければならなかった。

252372595_org.png
 

H作戦は、インドネシアと呼ばれる地域、そのほとんどの占領に成功するという満足すべき成果を上げ、8月下旬に終了する。
しかし、その成功故に抱え込まねばならない面倒も存在した。
従来の支配体制が崩壊した現地では無数の混乱が発生しており、日本は新たな統治者としての責任を果たさなければならなかったのだ。
日本政府(と赤軍総司令部)は、本格的な占領統治が始まるまでは、蘭印作戦に参加した将兵に治安維持部隊の役割を果たさせる事とした。
彼らの帰還が叶ったのは、日本本土から派遣されてきた憲兵を伴う部隊がインドネシア各地に進駐し、ジャカルタに居を構えた軍政司令部(司令官は今村均陸軍中将)が実働し始めた10月末の事となった。

勝利を携えて帰国した兵士を、国民は大いに歓迎した。
戦意高揚を目的として、人民会議代議員選挙(人民会議は日本における最高国家権力機関)の実施を政府が約束した事も、その喜びを増幅させた。
選挙の実態は共産党独裁を正当化する為の「官製選挙」で、「政党政治こそ政治のあるべき姿である」という美辞麗句からは程遠いものとなるのだが、1940年当時の国民は知る由もない。*4

252372615_org.png
 

一方で、戦勝に沸き、提灯行列が連なる通りからは見えない場所――家々の奥座敷、集会所の隅、路地裏などで、密やかに会話を交わす者たちもいた。
彼らは静かに神武天皇即位紀元2600年という節目の年を祝い、獄中にある天皇の身を案じ、帝国と名乗っていた頃の日本を懐古し、祖国の現状を憂いた。*5

252372582_org.png
 

こうした帝政時代を懐かしむ者たち――消極的反体制派とでも呼ぶべき存在を知った日本政府は彼らを危険視した。

過剰反応、とも言い切れない。
当時の日本政府首脳すなわち日本共産党の面々は、帝国政府によって弾圧され、逮捕され、投獄され、拷問を受け、繰り返し転向を迫られた暗い記憶を持っている。
そうした帝政時代を「よきもの」と懐古し、その再来を願う者たちを、半ば自動的に「敵」と認識してしまうのも無理はなかった。

しかし、消極的反体制派を単純に弾圧する事はできなかった。
当時の特別高等警察がまとめた資料によれば、消極的反体制派は最大で約400万人、その家族を含めれば1000万人超。つまり当時の日本の人口の1割以上となる。
職場や家から引き離し、政治犯として収容し、あるいは北海道の原野に放逐する、などといった荒っぽい手段をとれる規模の人数ではない。

こうした厄介な状況において日本政府が下した決断は、かつての天皇、裕仁の釈放だった。
ただそれだけならば、反体制派の勝利という事になる。
実際に、天皇釈放を共産党政権の降伏宣言と捉え、「陛下」が演説を行うという人民広場(反体制派にとっては宮城前広場)に足を運んだ者も多かった。

無論、共産党政権は降伏などするつもりはなかった。

収監中に労働改造と思想教育を受けた裕仁は、広場に集まった聴衆30万人を前にして、
「天皇制支配体制によってもたらされたものは、無謀な帝国主義侵略戦争、人類の生命と財産の大規模な破壊、人民大衆の悲惨にみちた窮乏と飢餓とであった」*6
から始まる自己批判を展開し、今後は「一個の人間として、プロレタリアートとして、共産主義世界実現の為」に微力を尽くしたい、と締めくくった。
演説を終え、こわばった表情を浮かべる裕仁を、対照的に喜色満面の野坂参三人民会議幹部会議長は「同志」と呼びかけ、政府から「赤坂」の姓を贈る(つまり、今後は赤坂裕仁と名乗らせる)事を発表した。

この、いわゆる「人間宣言」は、広場の群衆だけでなくラジオ放送を通じて聴いていた全国の人民(事前に重要な放送があると周知されていた為、聴取率は高かった)に、大きな衝撃を与えた。
もちろん、それが共和国政府の目的だった。
帝政支持者にとって重要な年である西暦1940年(皇紀2600年)に「市民裕仁」を衆目に晒し、「天皇」自身の口から天皇制批判を行わせる。
それによって、革命以後もしぶとく生き残る右翼勢力に打撃を与える事ができる、と彼らは判断したのだった。

その狙いは成功したといって良い。
1941年以降、日本における右翼勢力の活動は低調になり、消極的反体制派の数も年を追うごとに減少していく。
これには、第一次五カ年計画以降の経済政策の成功によって共産党支配を支持する人民が増えた(自らの懐さえ満たされていれば、大抵の者は文句を言わない)事もあるが、何よりもこの宣言が与えた影響が大きいとされている。

「人間宣言」が行われた1940年11月10日を以て、大日本帝国という国家は完全な過去の遺物となった。そう表現する事もできるだろう。

アメリカニズム

日本の蘭印獲得は、アメリカ合衆国にとって看過できない問題となった。
日本がインドネシアを支配する事により、米領グアムやフィリピン・コモンウェルスがほぼ完全に包囲される事になり、
また、合衆国の友邦であるイギリスやオーストラリアの領土が危険にさらされる事にもなるからだ。

252372581_org.png
 

なんらかの対日抑止策が必要な事は明らかだったが、その具体的方策となると、政権内でも意見が分かれた。
ハロルド・イッキーズ内務長官やスタンリー・ホーンベック国務長官特別顧問といった対日強硬派は、石油など重要物資の全面禁輸も視野に入れた強力な輸出制限を主張した。
一方、ジョゼフ・グルー駐日大使に代表される知日派は、日本を追い詰めれば戦争に発展する可能性があると警告し、強硬派と対立した。

ルーズベルト大統領とハル国務長官が採用したのは、強硬派が主張するほどには日本を刺激しないが、知日派が満足するほど穏当でもない、いわば折衷案だった。

軍需物資の輸出は許可制となり、これは当然対日輸出にも適用され、事実上の禁輸状態となったが、日本が最も必要とする屑鉄と石油は、輸出許可制度の対象外だった。*7
既にインドネシアを手に入れた日本に対して石油を禁輸しても効果は薄い、というのがその理由とされたが、実際には日本の軍事的報復を警戒しての選択だった。

252372593_org.png
 

一方で、太平洋艦隊の母港を従来のサンディエゴから真珠湾に前進させてもいるが、
これは日本に対する締め付けというよりは、第二次米墨戦争初頭に受けた被害によってサンディエゴの軍港機能が損なわれていた事の方が大きい。

252372610_org.png
 

こうした、及び腰な対応がとられたのには、合衆国の国内事情が背景にあった。
第二次米墨戦争で本土が戦場となった合衆国では、全米各地で反戦運動が盛り上がっていたのだった。
ニューヨークでは大規模なデモ行進が行われ、首都ワシントンD.Cでは、最大規模の反戦集会が開催されていた。
(興味深い事に、こうした運動の多くは直接の被害を受けた南部よりも北部、特に東海岸で活発だった)

ヨーロッパで二度目の世界大戦が勃発した1940年においては、こうした反戦主義はそのまま孤立主義と結びついた。
この年の9月に結成されたばかりの反戦主義団体「アメリカ優先委員会」が瞬く間に会員80万名を数えるまでに急成長した事からもわかる通り、
この時期の合衆国市民の心を最も強く掴んでいたのは、自国が戦争を始めるのも他国の戦争に巻き込まれるのも御免だという、反戦孤立主義なのだった。

アメリカ優先委員会の支持者には各界の著名人も多く含まれていたが、その1人に大空の英雄がいた。
史上初の大西洋単独無着陸飛行を成し遂げた、チャールズ・リンドバーグである。

リンドバーグはアメリカ優先委員会の広告塔として全米各地で反戦演説を行い、委員会のさらなる拡大に貢献した。
彼はその政治思想――ナチズムへの共感や反ユダヤ主義――によって多くの批判にさらされたが、彼自身の名声がそれを補った。
リンドバーグは、海外での戦争に合衆国が関わるのは間違いだと断言し、合衆国の青年を戦場に送ってはならないと叫び、世界情勢に背を向けてただ一国平和を守る事を訴え、それに反対する者を「戦争煽動者」と糾弾した。
彼は真実、自らの主張を実現する事こそが祖国の利益になると信じていたから、その舌鋒は鋭さを増していくばかりだった。

リンドバーグと真っ向から対立する意見を持つ人物も存在した。
1940年の大統領選に共和党から立候補したウェンデル・ウィルキーである。
ウィルキーは全体主義国家が次々成立していくことに危機感を覚え、合衆国の自由と民主主義を守る為には同じ民主主義国家であるイギリスと手を組まなければならないと考えていた。
彼はその信念を隠す事なく表明し、そして、多くの有権者にそっぽを向かれた。
孤立主義者にとり、ウィルキーの主張とは忌まわしい呪文の類に他ならなかったからだ。

一方、現職大統領であるルーズベルトは、対抗馬ほど「正直」ではなかった。
彼はウィルキーと同様に対英支援の必要性を十分に認識していたが、同時に、大衆というものがいかに感情で動くものかも理解していた。
何といっても彼は合衆国大統領という職を既に8年近くも務めており、現実と理想をすり合わせる方法については十分すぎるほどに経験を積んでいた。
為政者として必要と信じる、しかし不人気な政策を実行する為には、あからさまな大衆迎合(ポピュリズム)さえ時には必要なのだと受け入れてもいた。

252372609_org.png
 

こうした二人の差異が、1940年大統領選における民主党の大勝を呼び込んだ。
本心に反して中立の維持と非参戦を公約として掲げたルーズベルト大統領が、全米48州のうち実に43州を制したのである。
「合衆国の平和の番人」となったルーズベルト大統領は、しかし、その呼び名とは裏腹に、翌1941年から始まる3期目において対英支援と軍備増強を進めていく。

252372608_org.png
 

だが、これら政策は公約に反する為に公にされる事はなく、それ故に小規模かつ遅々とした歩みにならざるを得なかった。
アメリカ合衆国は、第二次世界大戦に勝利し超大国として君臨できる力を持ちながらも、主権者たる国民の意志によって自らその地位を放棄し、ひたすらに安寧の夢を見続ける事を選択したのだった。

救露討独遠征軍

合衆国が明確に中立を志向した事は、共産陣営の動向に大きな影響を与えた。
何故なら、太平洋を挟んで合衆国と対峙している日本にかかる圧力が大きく減少し、
日本赤軍が合衆国軍を気にする事なく欧州に大規模な戦力を派遣する事ができるからだ。

だがそれは、日本の戦力を当てにしなければいけない程に欧州方面の戦況が芳しくないという事でもある。

まず6月17日、すなわちソ連のポーランド侵攻開始の2日後、ドイツ、ポーランド両政府は共同でソ連の侵略に対抗する事を表明。
ここに独波軍事同盟が正式に成立する。

252372598_org.png
 

といっても、このときドイツ軍の陸空戦力の大半は、ソ連とポーランドの国境から1,500km以上離れたフランスの地にあり、
ポーランド軍は自軍に倍する戦力を持つソ連軍を相手にほとんど独力で戦わなければならなかった。
その当然の帰結として、ポーランドは開戦から1カ月にも満たない間に東部領土のほとんどを失陥し、首都ワルシャワがソ連軍砲兵の射程内に入るほどに押し込まれてしまう。

252372584_org.png
 

だが、急速な進撃の代償として補給が追いつかなくなったソ連軍が息切れした事で、ソ連=ポーランド戦線はワルシャワ前面で膠着する。
この間にポーランドは対独国境に配置していた戦力(防共協定締結後もなお主力の一部がドイツ方面に配置された事に、ポーランドの根強い対独不信感が見て取れる)を対ソ戦線に配置転換。
さらに、チェコスロバキアが7月16日に降伏した事によって同国方面に展開していた兵力の投入も可能となった事で、ポーランド軍はソ連軍の2度の攻勢を跳ね返す事に成功する。

252372617_org.png
 

そして、ソ連軍が3度目の攻勢の準備を整えた7月末。
ついに、ポーランドが待ち望み、ソ連が恐れ続けた事態――ドイツ国防軍の東部戦線到着、戦闘参加が実現する。
彼らは来たのだ。

252372588_org.png
 

ドイツ軍主力の東方転進が早期に実現した背景には、フランス・スペイン両軍の崩壊があった。
既にこの時、ドイツにとって西部戦線は主戦場ではなくなっていたのだ。

7月末の段階で、フランス軍は大西洋岸にへばりつくような形でかろうじて諸都市を維持しているに過ぎず、
ドイツ軍との交戦よりもできるだけ多くの兵士をアフリカに脱出させる方向へと方針を転換していた。
(ただし、アフリカ脱出の試みはそのほとんどが失敗し、多数の部隊が各個撃破され、殲滅あるいは降伏する事になる)

252372611_org.png
 

内戦終結後も内紛に明け暮れていたスペインは、ピレネー山脈という天嶮を有しながらもドイツ軍の侵攻を阻む事はできず、9月にはマドリードを失陥。
その後も敗走を重ね、1940年末には本土における支配地域がアンダルシア地方のみとなるまでに追い詰められてしまう。

252372606_org.png
 

西部戦線を事実上消滅させたドイツ国防軍は、ポーランド軍と協力して反撃を開始する。
トハチェフスキー元帥の指揮を受けたソ連赤軍は総崩れこそしなかったものの、ポーランド騎兵とドイツ擲弾兵の猛攻の前にじりじりと後退。
冬の到来によってドイツ・ポーランド連合軍の攻勢が止まった時には、ポーランド東部領土の過半が奪還されていた。

252372586_org.png
 

悪化していく戦況に、ブレスト=リトフスク条約やポーランド・ソビエト戦争の屈辱的な記憶を呼び起こされたトロツキーは、なりふり構わず同盟諸国に支援を要請した。
もっとも、フランスとスペインが崩壊した以上、欧州に大規模派兵を行える能力を有するのは日本と中国のみであったから、ソ連からの要求も必然的にこの二国に集中した。

コンスタンチン・スメタニン駐日ソ連大使からトロツキーの親書を受け取った宮本首相は、ただちに派兵の準備を整えるよう日本赤軍統合幕僚会議に厳命した。

ソ連の苦境を、遠いヨーロッパの出来事と座視するわけにはいかなかった。
フランス、スペインに続いてソ連までもが敗北すれば、ヨーロッパ全体が社会主義経済から切り離されてしまう。
ファシストと資本主義者が世界の大半を支配する中、極東アジアのみを勢力圏として存続する共産主義国家――などという未来にはどう考えても明るい展望を抱けないのだから、ここは何をおいてもソ連を支援しなければいけなかった。

命令を受けた統合幕僚会議は大急ぎで欧州派兵計画を立案した。
とはいえ一から計画案を練っていたのでは到底間に合わないから、
帝国陸軍時代の参謀本部による第一次世界大戦期の「欧州派兵に関する研究」やシベリア出兵時の諸資料といった埃の被った書類の束が引っ張り出され、原案となった。

なんとか体裁を整えた計画に従い、多くの部隊が日本本土からウラジオストクへと送られ、そこからシベリア鉄道によって一路ヨーロッパへと送られた。*8
モスクワに到着した日本赤軍兵士は赤の広場でのパレードに参加したのち、枢軸軍の攻勢に備えるべくそのまま前線に向かった。

252372589_org.png
 

かくして、日本赤軍欧州派遣部隊――遣欧軍は、「革命の祖国」たるロシアを守るため、ドイツを打倒するため、そして大戦に勝利するために、故郷から遠く離れた地でおびただしい量の血を流す事になる。

 

前回
04_平和

トップへ
旭日の革命


*1 この時、「ベルギーがフランスと同盟締結」「ベルギーがイギリスと同盟締結」の2つのイベントを一度に処理した為か、連合と共産が疑似的な同陣営と認識されているらしく、共産陣営に属する日本から、連合陣営のイギリスやカナダなどの兵力配置が見えるようになっている。ただし、研究進捗は見えず、青写真の交換もできない。
*2 独ソが交戦状態にある事から、ヴィシーフランス成立イベントが発生しない。
*3 本当は仏領インドシナを拠点としたかったが、フランスが物資を送ってくれないので断念した。
*4 「大政翼賛会」イベントで「政党政治こそ政治のあるべき姿である」を選択した。「バスに乗り遅れるな!」を選んだ場合、権威主義政権を成立させるイベントが後に発生してしまう為、共産日本プレイでは都合が悪い。
*5 史実準拠イベント追加MODの「紀元二千六百年式典」イベントのトリガーは「戦時か平時か」を判定するものだけなので、天皇以外が国家元首の場合や、政体が左派独裁系の場合でも発生する。
*6 日本人民共和国憲法草案より。
*7 第二次世界大戦勃発がトリガーになったのか、アメリカの対日貿易レートが極悪に。
*8 ウラジオストクまで海上輸送し、戦略的再配置でモスクワまで飛ばした。

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2017-11-18 (土) 01:42:51 (27d)