平和


かつてレーニンは「共産主義とは、ソビエトの権力 + 全国土の電化である」と言った。
つまり、「ソビエトの権力 = 共産主義 − 全国土の電化」であり、「全国土の電化 = 共産主義 − ソビエトの権力」である。


流血の地

1939年は、多くの人にとって平和な年であった。
メキシコは前年12月から内戦状態にあり、また、年明け早々に中国で小紛争が勃発したものの、それ以外の地域が戦場となる事はなかった。
もちろん、銃火に晒されたメキシコなど現地の人々にとっては、何の慰めにもならない事ではあるが。

先述の通り、メキシコ内戦が勃発したのは、1938年12月の事である。
第二次米墨戦争の敗北や、降伏後の新政権が行った数々の「売国的」政策に不満を抱いたメキシコの軍人・民衆が、親米「傀儡」政権に反旗を翻したのだ。
「メキシコ連邦」を名乗る反乱軍、その主力は、彼らを率いるサトゥルニノ・セディーリョ将軍の地元サン・ルイス・ポトシ州を進発し、南下。
弱体な政府軍を排除し、首都シウダ・デ・メヒコへと進駐を果たした。

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首都を追われたメキシコ政府は宗主国たる合衆国に救援を求めたが、合衆国の動きは鈍かった。
その原因としては、合衆国が第二次米墨戦争終結直後から早々に復員を開始しており、軍の戦力が低下した状態にあった為である――と、よく言われるが、これは正確ではない。
たしかに当時の合衆国軍の戦力は戦時よりも低下していたが、それでもメキシコでの反乱を鎮圧するだけの能力は十分に有していた。

ルーズベルト大統領が即時の派兵を命じなかったのは、準備不足のまま介入した場合に戦死者が増大する事を恐れた為だった。
翌年の大統領選挙を見据えれば、戦死者の数は可能な限り低く抑えておきたいところであり、
それを実現するには、準備を十分に整えた上で介入し、圧倒的戦力差を以て短期間で戦闘を終結させねばならない、というのが彼(とそのスタッフ)の考えだった。

結果、合衆国軍のメキシコ派兵が実現したのは反乱発生から実に約11カ月後、1939年11月の事だった。*1
合衆国軍はまずセディーリョ軍支配下にあったメキシコ湾岸の都市ベラクルス付近に上陸。
ベラクルスからプエブラへと進撃し、シウダ・デ・メヒコの奪還にも成功した。

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この合衆国軍の攻勢に呼応してメキシコ政府軍が反撃に転じ、反乱軍の拠点サン・ルイス・ポトシ州が陥落。
セディーリョ将軍は捕らえられ、略式裁判を経て銃殺された。
指導者を失った反乱軍が瓦解した事で反乱は急速に収束していき、1939年12月20日、メキシコ内戦は終結した。

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西方を赤く染めて

1939年の例外的な「非平和的事態」のもう一つが、中華ソビエト共和国によるチベット侵攻である。

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1912年の清朝崩壊によってチベットは事実上の独立を達成していたが、清朝の後継国家である中華民国は「旧領回復」の機会を虎視眈々と狙っていた。
これは中華ソビエト共和国も同様で、モンゴルに関しては1937年のクラスノヤルスク合意で領有権主張を棚上げしたものの、チベットを諦めるつもりは毛頭なかったのである。

1939年1月、「西蔵和平解放」と称して進軍を開始した中華ソビエト共和国軍は、チベット軍の散発的な抵抗を排除し、同年5月にチベットの首都ラサを占領。
中央チベット政府(ガンデンポタン)は、4歳にも満たないテンジン・ギャツォ少年――即位前のダライ・ラマ14世を連れてインドへと亡命した。

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この中国の軍事行動は、チベットの北に位置する新疆を震え上がらせた。
新疆はチベットと同様かつての清朝の領土であり、また、(半ば独立していたが)名目上は中華民国に属する地域でもあった。
つまり、中華ソビエト共和国にとっては新疆もまた回復すべき旧領という事になり、新疆が「次は我々か」と恐れるのも当然といえた。

新疆の支配者である盛世才は破滅を回避すべく、ソ連の保護を求めた(新疆は元々ロシアの影響力が強い地域である)。
既に前年にスターリニストを粛正してトロツキー率いるソ連に接近していた彼は、1939年3月にソ連共産党に入党。
自ら進んで新疆をソ連の権益下に置く事で、中国軍による侵略の回避を図った。

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盛世才はさらに新疆の第四インターナショナル加盟も目指したが、これは中国の反対もあり、果たせなかった。
ともあれ、こうした一連の方策は功を奏し、新疆は内外から社会主義勢力の一員と見なされる代わりに独立の維持に成功する。

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1939年における社会主義勢力の拡大は、中国西部だけの話ではない。
8月、南米パラグアイにてチャコ戦争の英雄ホセ・フェリクス・エスティガリビア将軍が大統領に就任する。

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エスティガリビア大統領は、共産党と左翼グループからなる二月革命党との宥和を図り、農地改革などの社会主義的政策を実施。
さらにパラグアイはソ連やフランスへと接近していき、南米で2番目の第四インターナショナル参加国となった。

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日本革命や中国統一などの歴史的に大きな出来事があった1938年以前と比べれば緩やかではあるものの、第四インターナショナルは着実にその勢力を拡大していた。

燎原の火

しかしながら、勢力を拡大させていたのは第四インターナショナルだけではなかった。
反共主義を掲げるファシズム国家群もまた、ナチスドイツを中心としてその勢力を伸ばしていた。

ソ連とフランスという二大社会主義国に挟まれたドイツは、二国への対抗上、欧州諸国を結集した反共大同盟の構築を目指した。
その第一歩を前年にイタリアおよびポーランドと締結した防共協定であるとするならば、二歩目としてヒトラーはイギリスとの同盟を望んだ。
ヒトラーにとってソ連は不倶戴天の敵だが、西方の征服は本意ではなく、特にイギリスは手を結ぶ事ができる相手だった(あくまでヒトラーにとっては)。

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だが、この試みは失敗する。
ソ連を中心とする社会主義諸国を脅威と見ていたのはイギリスも同じだったが、イギリスにとってはナチスドイツもまた別の脅威だった。
また、ヴェルサイユ・ロカルノ体制を破綻させ、恫喝外交を繰り返すドイツを、信頼に値するパートナーとして見る事もできなかった。
ナチス政権下におけるユダヤ人迫害に対し、英国民が反独感情を燃え上がらせた事も同盟不成立の一因となった。

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また、ドイツが4月に英独海軍協定を破棄した事で、独英同盟交渉は完全に暗礁に乗り上げてしまった。

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独英同盟不成立の背景にはもう一つ、ドイツによるオランダの衛星国化という問題もあった。

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発端は、オランダの都市ハーグにあるドイツ領事館職員の私邸に銃弾が撃ち込まれた――と、ナチス機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』は報道した――事にある。
ヒトラーは1月30日に行われた政権成立六周年記念演説会にて、事件について「オランダ政府の反独的姿勢が生んだ悲劇」と言及し、「友好的」な政権が樹立されない場合はドイツ人保護の為に軍を動かさざるを得ない、とまで述べた。
また、『フェルキッシャー・ベオバハター』も2月3日付の記事でオランダを強く非難した。

このドイツからの圧力にオランダ政府は抗しきれず、時の政権を担っていたヘンドリクス・コレイン首相は退陣。
新たな首相には、オランダ国家社会主義運動(Nationaal-Socialistische Beweging in Nederland / NSB)の指導者アントン・ミュッセルトが任命された。*2
新内閣にNSB党員を多数登用したミュッセルト新首相は親ドイツ外交を展開し、後には軍事同盟を締結。
これに反対し、執務をボイコットして新内閣との対立姿勢を明確にしたウィルヘルミナ女王は軟禁状態に置かれた。
(ただし、NSB党内の主導権は、より強硬な反ユダヤ主義者であるメイノード・ロスト・ヴァン・トーニンゲン副首相が握りつつあった)

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この独蘭同盟はイギリスを刺激する結果となり、先述の通り、ヒトラーが真実望んでいた独英同盟の実現を遠のかせる一因となった。
決して手放しに称賛できる成果ではない。
ヒトラー流外交の限界と言うべきかもしれない。

だが、ヒトラーはイギリスとの同盟交渉の失敗にくじける事なく(あるいは失敗を挽回する為に)、ますます精力的にドイツ勢力圏の拡大を図った。
3月には、ポーランドと共同でリトアニアに圧力をかけ、港湾都市クライペタ(メーメル)の割譲を認めさせた。
さらに10月、ラインラント進駐以来ドイツへの接近を続けていたユーゴスラビア王国が、ついにドイツとの同盟に踏み切った。*3

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独英同盟という悪夢の実現こそ避けられたものの、ポーランド、イタリア、ユーゴスラビアを抱き込んで中欧を支配するナチスドイツは、ソ連とフランスにとって悩みの種だった。
11月に発生したヒトラー暗殺未遂事件について、トロツキーの陰謀ではないかとゲシュタポが疑ったのも、そうした対立が背景にある(実際にはゲオルク・エルザーの単独犯だった)。*4

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暗殺未遂事件には関与していなかったものの、共産陣営と枢軸陣営の対立はもはや隠しようもなかった。
両陣営の対立は激化する一方であり、近い将来に激突するだろう事は誰の目にも明らかであった。

南進論

ドイツを中心とする反共主義勢力の拡大、特にオランダがドイツ影響下に置かれた事は、日本にも重大な影響を与えた。
オランダ領東インド植民地(以下、蘭印)政府が、本国のミュッセルト政権を支持したからである。

当時の日本にとって蘭印は重要な貿易相手であり、ナチ化したオランダが社会主義国との貿易を縮小させる方向に舵を切った場合、進行中の第一次五カ年計画にも影響を与えかねなかった。
日本は当然貿易量の維持をオランダ側に求めたが、蘭印側は「貿易による物資の供給は各企業の判断と責任であって、蘭印政府が保証する立場にはない」との主張を曲げず、
さらには、オランダ本国の外相が「日本の如き後発国が我が国に対して貿易量維持の保証を要求するとは、日本の増長を示すもの」と述べるなど、日蘭関係は悪化の一途を辿った。

また、オランダとの関係が悪化した事で、日本政府と軍は蘭印を仮想敵の一つとして考える必要に迫られた。
これはすなわち、マラッカ海峡、スンダ海峡といった海上交通上の要衝を敵性勢力に押さえられた事を意味する。

また、オランダは1939年4月に巡洋戦艦3隻の建造をドイツに依頼するなど海軍拡張に転じており、
蘭印に駐留するオランダ軍の戦力が少なからず強化される可能性があった(オランダ軍は伝統的に資源の豊富な蘭印の防衛を重視していた)。

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オランダよりも厄介だったのが、その宗主国にして同盟国たるドイツだった。
英独海軍協定を破棄したドイツは海軍再建に奔走していたが、その方針としてヒトラーは潜水艦隊司令長官カール・デーニッツ海軍大将の主張を採用。
すなわち、戦艦や空母など華やかな決戦型艦隊ではなく、大規模通商破壊を目的とする潜水艦隊こそが新生ドイツ海軍が目指すべき姿とされた。

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ドイツがこの潜水艦戦力の何割かを極東に派遣し、蘭印を拠点として通商破壊を行った場合、日本の戦争遂行能力に致命的な打撃を与えうる――総力戦研究所(首相直轄の研究機関。後の国際情勢調査会)は、そう結論付けた。
1936年の日本革命以後、日ソの経済的結びつきは年々強化されていたが、それでもなお当時の日本は石油をはじめとする戦略資源の多くをアメリカ合衆国からの輸入に頼っており、
日米間を繋ぐ航路が存在する太平洋で、ドイツ潜水艦群の跋扈を許すわけにはいかなかった。

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総力戦研究所からの報告書(ダクラート)を受け取った宮本首相は、軍に蘭印攻略作戦の立案および対独戦を見据えたソ連軍との連携強化を命じた。
意地の悪い言い方をすれば、これまで遠いヨーロッパの問題と軽視していた対独戦がにわかに近傍の東南アジアにまで波及してきた事で、ようやく危機意識を持ち始めたのだった。

日本よりもよほど切迫した危機感を抱いていたソ連(何しろ彼らはドイツ勢力圏と直接接している)が日本の積極的態度を歓迎した事もあり、日ソ両軍の連携は急速に進んだ。
有望な若手士官を中心にフルンゼ軍事大学への留学が認められるようになり、また、日本人民陸軍大学校にソ連から教官が派遣される事にもなった。
こうした協力の実現によって、以降の日本人民陸軍からは旧帝国陸軍の影響が薄れていき、ソ連軍式の編制・ドクトリンを有する組織になっていく。*5

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また、試験用に供与されたソ連の戦車、BT-7MやT-26などを参考にして*6、人民陸軍技術研究本部と丸子工場設計局*7が共同で三七式中戦車チハ*8の改良案をまとめあげた。
装甲貫徹力に優れた新型戦車砲と大型の新砲塔が搭載される事になった改良型の三七式中戦車は、三七式中戦車改あるいは新砲塔チハと通称された。

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ソ連と協力しての戦車開発はこれ以降も続けられ、1941年に日本が採用する四一式中戦車チヘでは開発・設計段階からソ連のT-34戦車を参考とし、
また、1961年に採用される六一式戦車は和製T-54(当時のソ連における主力戦車)と呼ばれるなど、ソ連戦車は日本戦車に多大な影響を与えていく事となる。

後々の話はさておき、日本は(ソ連から見れば遅ればせながらではあるが)戦争に向けての努力を始めていた。
時は既に1939年の暮れ。
人類史上二度目の世界大戦は、その翌年に迫っていた。

 

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*1 正確な日付は不明。プレイヤーが確認した限りでは、11月10日から11月23日の間。
*2 イベント文ではドイツから総督が送り込まれる事になっているが、史実で占領下オランダの国家弁務官を務めたアルトゥール・ザイス=インクヴァルトの登場年は1940年。また、閣僚IDの数字が大きいのも影響し、このイベントでは出番がない。
*3 オランダと違い、こちらは特にイベントが発生したわけではない。
*4 HEAMにある「ビュルガーブロイケラー爆破事件」イベントは、平時と戦時で暗殺成功の確率が変わる。今回は平時だった為に通常よりも暗殺成功の確率は高かったのだが、ヒトラーは無事切り抜けた模様。
*5 陸軍ドクトリンをソ連や中華ソビエトと同じ人海戦術系統へと切り替えた。研究チーム「陸軍大学校」が中々の良適性。
*6 ソ連から「基本型中戦車」の青写真を購入した
*7 研究チーム「三菱重工業」の事。
*8 「九七式」は皇紀2597年に由来する為、西暦に置き換えた。

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Last-modified: 2017-02-10 (金) 21:29:43 (438d)