前進


兵士として戦場へ行った夫と、国に残る妻との手紙のやりとり。
「愛するあなたへ。そろそろ畑を耕して野菜を植えようと思いますが、人手が足りないので何人か雇おうと考えています。いかがでしょうか」
「愛する妻へ。畑を耕すのは少し待ちなさい。あそこには武器を埋めて隠してあるから」
「愛するあなたへ。突然警察がやってきて、畑のあちこちを掘り返していきました。一体なんだったのでしょう?」
「愛する妻へ。さあ、野菜を植えなさい」


どこまで続くぬかるみぞ

1936年に始まった中国解放戦争は、悪路との戦いと言って良い。

この当時の中国は道路の整備が進んでおらず(日本やソ連も程度の差はあれ似たようなものだったが)、内陸部ほど未整備の地域は多かった。
これはすなわち、日本や中華ソビエト軍が進撃すればするほど、補給の困難に直面するという事でもある。
さらに、中国国民党は焦土作戦を採用し、軍の撤退時に軍事施設、食料倉庫、鉄道網など一切合切を破壊していった為、
前線を押し上げた日中軍は、まずそうしたものの修理・整備を行わなければならなかった。

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この頃の日本では、エクスカ(パワーショベル)やドーゼル(ブルドーザー)といった建設機械は軍にも導入されていなかったから、これらの作業はすべて人力で行わなければならなかった。
実際、当時の兵の手紙や日記には「銃よりもツルハシやモッコを扱っている時間の方が長い」などといった文句や愚痴が散見される。

また、1936年に主戦場となった北部・黄河流域とは異なり、1937年以降に戦場となる南部および西部は丘陵や山脈が連なり、これも補給の困難さを増す要因であった。

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これらの問題に対し、日本政府は通運業務を統括して運営する日本通運公社を発足させたが、これも輸送負担の軽減にはなっても解決には至らない。

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このような状況から、ソ連軍は「補給への負担を考慮した」結果、意図的に「派遣兵力を小規模なものに抑える」決断を下している。*1
もっとも、これには「主力はヨーロッパに留めておきたい」というソ連側の意向が何より強く働いているから、その主張を鵜呑みにするわけにもいかない。

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ともあれ、兵力の面でソ連を当てにできない以上、日本軍が果たすべき役割は大きくなる。
本土および朝鮮に治安維持用のわずかな兵力のみ*2を残し、日本は総勢39個師団(後にいくらかの増援が加わる)を以て中国戦線における主力を担う事となった。*3

ここは御国を何百里

中国方面に展開した日本軍は、その行動方針として攻勢を選択した。
政府が、宮本首相がそれを望んだからだった。

当初その方針に反対し、現戦線での防衛および現状の優位を利用した講和を主張していた草鹿龍之介*4統合幕僚会議議長(革命後に新設された、陸海空三軍を統括する日本赤軍の最高位職)は「敗北主義的である」としてその職を追われ、
中沢佑海軍大佐が大将に特進(実に三階級特進という事になる)し、その後任となった。
また、同時期、人民海軍軍令部長を務めていた米内光政海軍中将が政治的信頼性の低さを理由に更迭*5され、河合明*6海軍中将が後釜に座った。

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中沢新体制の日本赤軍が立案した攻勢計画「一号作戦」は、ごく単純なものだった。
中国大陸中央部の敵防衛線を突破し、広西軍閥支配地域に向けて打通。
蒋介石政権の現在の拠点である重慶と沿岸部を切り離し、後者の地域に配備されている国民党軍を包囲撃滅する事を企図していた。

広西軍閥は、1936年以来国民党と戦争状態にあり、さらに日本からの軍事物資援助を受け入れており、対国民党という点においては事実上の共産陣営の一員と言って良かった。

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一号作戦の戦術的な目標は敵野戦軍の殲滅、戦略的な目標は国民党の支持基盤である沿岸諸都市の完全制圧であった。

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白頭御山に積もりし雪は

一号作戦が発動されたのと同じ頃、シベリア中部の都市クラスノヤルスクで日中ソ首脳会談が行われた。
会談の目的は、3カ国間に存在する領土問題――樺太、台湾、外満州*7など――に、解決への道筋をつける事であった。
この会談では問題の即時解決とまではいかないものの、互いの主張を「理解」し「尊重」する事とし、また、将来の平和的解決が約束された。

係争地以外については、日本の朝鮮領有――日本民主主義人民共和国朝鮮自治区――を中ソが支持する事で合意した。
余談だが、朝鮮と同様の民族自治区は、他に台湾とアイヌのものが設立されている。
琉球自治区にも設立計画があったものの、
当の沖縄県民から「我々はあくまで日本民族である」と激しい抗議――台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや*8――を受け、立ち消えとなっている。

ともかく、こうして日中ソの間では解決した朝鮮問題であったが、それによって苦境に立たされたのが、東北抗日聯軍であった。
中国共産党指導下の抗日パルチザン組織で、共産党系の朝鮮人が多く所属するこの組織は、日本が共産化し朝鮮に自治が与えられた後もあくまで「朝鮮の完全独立」を目指して活動を続けていたが、
今回のクラスノヤルスク合意によって、完全に後ろ盾を失った事になる。
これ以前から環境の激変(先述した日本の共産化、満州国の崩壊、第四インターナショナルの成立と日中の参加)によって組織として衰退の一途を辿っていた彼らは、
統率を維持し、運動を継続し、自らの正しさを証明する為に、何か行動を起こす必要に迫られた。
少なくとも彼らはそう信じた。

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1937年6月4日、朝鮮人パルチザン金日成を指揮官とする東北抗日聯軍第1路軍第2軍第6師(を名乗る武装集団)は、朝鮮北部の村・普天堡を急襲。
武装集団は駐在所から武器を奪った後に郵便局や消防署を襲撃し、その際に行った放火が近隣の学校にも延焼した。
駐在所襲撃時に銃弾に当たった幼児が1名、その後の銃撃戦で警官7名が死亡した。

当時の普天堡は人口1400人に満たない寒村に過ぎなかったが、その近郊には重要な鉄道路線とその終着駅となる都市・恵山鎮があった事から、
日本側官憲はこの襲撃を重要視し、東北抗日聯軍第1路軍の首脳部や襲撃実行犯などに多額の賞金を懸けた。
中ソの捜査機関の協力もあり、程なく東北抗日聯軍は壊滅に追い込まれたものの、肝心の普天堡襲撃事件の実行犯である金日成だけは行方が分からず、今日に至っている。
余談となるが、金日成の行方を巡っては様々な噂が飛び交い、中には「金日成は妖術を使って逃れた」「縮地(瞬間移動)ができる」などといった荒唐無稽な伝説(というよりも迷信)も生まれた。

閑話休題。
こうした事件が銃後で起きている間も前線の日本軍は進撃を続け、8月には湖南省の邵陽に到達。
同地で事実上の友軍である広西軍閥軍と接触し、共同して沿岸部の国民党軍を包囲下に置く事に成功している。

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その後、日本軍は徐々に包囲環を狭めていき、1937年末の段階で湖南省以東の国民党軍の殲滅をほぼ完了。
日本軍が制圧した地域を「返還」された中華ソビエト共和国は、実に3年ぶりに長征以前の根拠地である瑞金を回復した。

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この時点で日本軍はその主力を内陸部へと転進。
未だ抵抗を続ける国民党軍に最後の一撃を加えんとしていた。

 

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*1 数えたところ、中国での戦争に参加しているソ連軍は合計12個師団。ソ連の圧倒的兵力を当てにしていたプレイヤーの目論見が崩れ去った瞬間である。
*2 シナリオ開始時に配備されている守備隊。
*3 同時期の中華ソビエト軍は30個師団強、インドシナ方面のフランス軍は15個師団ほど。
*4 閣僚特性:防衛論者(School of Defence)
*5 海軍総司令官の「米内 光政」は1936年時点では最も左派に近い(社会保守派)が、1937年以降はより左派に近い政体の閣僚が登場する為、自動で切り替わってしまう。
*6 林田博嗣、長村河鹿と並ぶ正体不明閣僚。
*7 史実準拠イベント追加MODでは、1936年シナリオや世界革命シナリオの開始時点で、外満州が中華ソビエト共和国と中華民国の中核州に設定されている。
*8 人類館事件(明治36年、「学術人類館」と称する見世物小屋が大阪に設置され、アイヌ人や台湾高砂族、琉球人、朝鮮人などが「展示」され、問題となった事件)への抗議として、琉球新報が掲載した論説より。

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Last-modified: 2016-08-28 (日) 22:55:49 (687d)