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その後の世界*1

第二の冷戦

 欧州の大半をその勢力下に置いた枢軸国と、実質的に残りは英米となった連合国との軍事的緊張が高まる事は、既に避けられない状況であった。
すでにロシア地方の米ロ国境における枢軸の圧力は日に日に高まっており、また連合国の側も殊に海空軍が明確な戦争準備を行っていた。
ちょうど、第二次世界大戦の開戦前の緊張を思わせる状況であったが、大きな違いはロシアが枢軸に付いている事であった。
つまり、世界で一二を争う大陸軍国である独ロが両方とも枢軸側にいる、ということであり、連合国がユーラシアから叩き出されるのは既に
不可避との見方さえあった。
 また、独仏ロをはじめとする大国の戦争の傷が癒えた事による軍備の復活も大きかった。現在のでは、特にルフトバッフェの再興が、海峡を隔てた
イギリスにとって大きな不安要素となり、後の国家運営に大きな影響を与えたとする見解が一般的である。

 もっとも、一番大きな動きはやはり核武装についての話だろう。ソ連消滅後、大きな敵は無いと考えたイギリス政府は、莫大な予算のかかる核武装を
事実上放棄し、核戦力は全てアメリカに依存する方針であった。これは、二次、三次の世界大戦で大量の損失を被った海軍の再建と、レンドリースという
アメリカに対する大量の借金の返済によって軍事費が圧迫されていた事にも起因するのだが。
 しかし、この日和見がある意味では仇となった。65年、日本が核保有を宣言し、世界に大きな衝撃が走った。現在でも非難される事は、アメリカを始め
連合諸国が日本を侮り、諜報体制を全く整えていなかったことで、日本の核開発計画をまったく感知できなかったことである。
そして、日本の技術協力もあって翌66年にはドイツが、67年には伊ロがそれぞれ核兵器の実用化に成功したと発表、世界がもう一度核の炎に包まれるという
大きな危惧を世界中が持つに至った。

枢軸国の団結と連合の崩壊

 世界が核戦争の恐怖を認識する中で、国際関係は大きく変化した。
 一つ目の大きな変化は、枢軸国がそれぞれ自主的な国家の集合という形になったことであった。盟主である日本は未だに影響力を持っていたが、
一方で貿易や外交ではある程度の自主性が認められたのだ。本部をアルザス公国の都、ストラスブールに置かれ、各国代表による合議制が執られた。
無論、その合議のメンバーは国力を反映し、日独伊西ロ仏の6カ国が常任、残り3カ国が持ち回りとされた。
 二つ目は、アジア地域の結集である。アジアの独立かつ中立国、即ち二次大戦後に独立した諸国が集まり、United Nations of Asia(UNA)、
アジア州連合という、いわば半連邦国家のような機関を立ち上げた。主要な国家はインドネシアやエジプト、中東諸国、中華民国などであった。
アジア州連合は、その過去から英米に対する姿勢は厳しい物であり、自ずと枢軸よりとなったが、最後まで中立を貫いた。
 最後は、中南米国家のアメリカに対する反発であった。中南米国家は、緊迫する世界情勢を鑑み、連合国の一員として巻き添えを食らう事を憂い、
またアメリカの自分勝手な外交にも反発し、67年、遂にメキシコ以南の米州諸国とカリブ海諸国は連合から離脱、マラカイボ条約機構なる軍事同盟を
結成した。これは、連合国に多量の資源を輸出していた国家がそろって離反した事を示しており、これもまたアメリカにとっては頭の痛い問題であった。
彼らはパナマ運河やフォークランド諸島といった英米仏の持つ海外領の返還を訴えており、これにより連合とも枢軸とも距離を置いた勢力となった。

ミラノ文書とバーミンガム協定

 枢軸国と連合国の緊張が高まるなか、両陣営は水面下での外交工作を活発化させていた。
 枢軸側の大きな成果は68年2月、ミラノで枢軸国とマラカイボ条約機構との間に結ばれた秘密協定で、これは後にミラノ文書として知られる事となる。
その内容は、来るべき連合との戦争を睨んだものであり、その際の両陣営の動向を定めた物であった。具体的には、

  • 現仏領米州地域を、戦後返還する事
  • 戦争によって獲得する中南米地域もまた、戦後に返還する事
  • マラカイボ条約機構は、現時点より連合国との貿易を漸次制限する事
  • 開戦の暁には、間接的に連合国に対し妨害を行う事
    であった。
     一方、連合国も黙ってはいなかった。同年5月、バーミンガムで英米首脳が会談し、枢軸国降伏後の世界統治についての協定を結んだ。具体的には、
  • 全アジアにおける、連合諸国の旧領回復
  • 日独の分割統治
  • ロシアにおける傀儡政権の樹立
    等に代表される、連合国による恒久支配を前提とした協定であった。

ティラナ宣言

 その後、両陣営は軍拡による無言の圧力を加えあっていたが、遂に69年12月、最後の世界大戦が現実味を帯びる事となった。
 12月5日、ティラナで会談を行った枢軸国首脳による共同宣言、いわゆる「ティラナ宣言」がそれである。
この宣言は、既に連合国に対する最後通牒であった。具体的には、

  1. 英米両国が3日以内に、アジア・ユーラシアにおける権益の放棄を約束しない限り、解放枢軸同盟は当該地域の開放に向け軍事的行動をとる。
  2. その際、核兵器は使用しない。但し、連合国が使用した場合は報復として英米両国の主要都市に核攻撃を行うことを予告し、また既にその準備が出来ている事を宣言する。
  3. この3日間の猶予期間、海外領を持たない連合国諸国は、その身の振り方の検討をすることを要求する。
    という3条項が主要な内容であった。
     これに対し、当然といえば当然であったが、アメリカ及び英連邦諸国は拒絶を表明したが、一方核兵器の不使用には同意した。これは、第三次大戦において
    核攻撃を受けたイギリスの意向を受けたものでもあった。また、第三条項に触発された諸国が行動を起こした。
     6日、ノルウェーとデンマークが連合からの離脱を表明。フィンランド、スウェーデンとともに局外中立を保つとした。
     7日、ベネルクス三国が連合を離脱。オランダは、バーミンガム協定による旧領回復に未練はあったが、すでに独仏両国の軍事的圧力を考えれば、枢軸との開戦など
    あってはならないことであった。
     これらの諸国は先の大戦で巻き込まれた国であり、彼らが中立により戦争から距離を置こうとした選択は評価されるべきである。無論、これにより
    連合国は欧州本土における拠点をほぼ喪失したことになり、英米とこれら諸国がいまだ内面的には和解しきれないのもまた当然である

 そして1969年12月8日、―くしくも太平洋戦争の開始と同日であったが―ついに正式に第四次世界大戦の火蓋は切って落とされたのだ。

第四次世界大戦・序盤

 この世界大戦は、大きく3つの戦線があったと知られている。一つは欧州、一つは中央ユーラシア、最後が太平洋である。
 このうち、開戦の12月8日は欧州と太平洋で大きな動きがあった。

 欧州では、ジブラルタル要塞をスペイン陸軍が包囲、また空軍による執拗な爆撃もあり、イギリス軍の守備隊が同日中に降伏した。
 また、太平洋地域では、東京を飛び立った大量の爆撃機が真珠湾に向かっていた。この大戦もまた、ハワイに対する航空攻撃で幕が開くことになったのだ。
アメリカの悲劇は、ティラナ宣言を受け多くの航空隊が日独を攻撃するために前線地域に移動し、ハワイ上空の戦闘機戦力が相当手薄になっていたことだった。
結局、戦艦4、空母3をはじめ大量の艦艇が大破着底し、また今回は港湾・航空施設まで徹底的に破壊された。これにより、以後しばらくはアメリカ太平洋艦隊は
作戦遂行能力を大幅に失うことになった。

 さて、その他の戦域を見てみよう。
 まず、英仏海峡は英独両国が、互いの国への戦略爆撃を企図し大量の爆撃機や護衛機を送り込んだ。当然、それを迎撃する機も大量に投入され、ドーバー海峡では
昼夜を問わず航空戦が繰り広げられた。この航空戦はバトルオブドーバーとして有名だが、今もドーバー海峡にはこの戦闘の名残で大量の航空機が沈んでいる。
 中央ユーラシアは、独ロを中心とした大陸軍が破竹の快進撃を見せ、米軍を恐ろしい勢いで駆逐していった。
 一方、日本本国と太平洋戦域はあまり動きがなかった。米軍はハワイでの損害から積極攻勢に出られず、一方で日本側も海軍の規模は小さく、貴重な艦艇を太平洋で
喪失するわけには行かなかったのだ。
 日本本土の防空戦もまた熾烈を極めた。米空軍は夥しい数の戦略爆撃機隊を投入したからである。ただ、優秀なレーダー施設と多量の地対空ミサイル陣地のある地域に
戦略爆撃機を投入する時点で大量の損失はあって当然であり、また二次大戦の惨事を知る大量のパイロットが迎撃にあたったことで、米軍は大量の未帰還機を出すこととなった。
もちろん、迎撃側の戦力消耗も馬鹿にはならなかった。しかし、最終的には修理設備の整った日本は、前線航空基地に頼る米軍に対し、地の利を生かしたといえるだろう。

中盤

 1971年、この年は大きな転機となった。
 1月、ロシア軍がついに新彊地方へ到達。
 2月、これに呼応し日独伊連合軍が南方へ進撃開始。イラン、インド北部を順調に制圧。東方はビルマまで到達する。
 そして、3月。この頃には、すでに英独双方ともに爆撃機を大量に損失し、ドーバー上空は相当平和になっていたのだが、ここをイギリスは突かれる形となった。
12日、日本の第一・第四艦隊を筆頭とした日西独連合艦隊がドーバー海峡に侵入。イギリス艦隊と交戦しつつも上陸作戦を開始する。そして、日本の海兵隊を筆頭に
ドーバーを制圧する。この間の海戦で、ドイツ海軍が空母を1隻失い、また独西の大量の輸送艦の一部が被害を受けるも、数で劣るイギリス海軍は劣勢となり、
敗色濃厚となる。日本の空母しょうかくを中破させ、戦艦むさしを小破させるも、主力艦がほぼ全滅の憂き目にあった。ロイヤルネイビーの止めを刺したのは、
無敵艦隊の再興を掲げるARNE、スペイン海軍であったことは歴史の一つの皮肉かもしれない。結局、日独計60個師団にも及ぶ兵力を投入した上陸作戦により、
4月15日にはとうとうグレートブリテン島が完全に制圧された。この頃にはインドもほぼ全域が制圧されており、これを機に英連邦諸国と枢軸国との講和会議が行われた。

1971年5月1日 ダンケルク講和会議

 英連邦と枢軸との講和条件は、過去の枢軸国の戦争と大差なかった。インド・パキスタンをはじめとするアジア地域の独立承認と、一定期間の管理統治、である。
またこの際、ジブラルタルはスペインに返還された。
 一方、カナダ・オーストラリア・ニュージーランドなど他の連邦諸国は枢軸への加盟か講和のみの中立化かの選択を与えられた。アラビア半島の2カ国は枢軸へ加盟。
カナダはアメリカと国境を接することから中立となることを選択。エールは枢軸へ加盟。オーストラリアとニュージーランドはアジア州連合へ加盟した。
この時をもって連合国とは実質的にアメリカ一国となった。

終盤

 このまま枢軸が押し切るかに思われたが、そうはならなかった。
 確かに、大陸ではすでにロシアが本国領を回復し、戦線は中国へ突入、アメリカ軍が海へ叩き落されるのは時間の問題であった。
 が、一方では米国本土に対する致命傷を与えるための上陸作戦などできる余地がなかった。日本、そしてイギリスの残存艦、独西伊仏の新造艦をすべて合わせても、
アメリカ一国に及ばない、ということだ。つまり、逆に言えば米国は枢軸国とのにらみ合いに使う艦艇から余る部分を作戦に投入できる、ということでもあった。
 ハワイ軍港がある程度回復した6月ごろから、米軍は日本本土への散発的な上陸作戦と大陸への救援作戦を開始する。日本側は、海上保安庁のミサイル艇と
多量の対艦攻撃機で何とかこれを撃退するが、もはや東部太平洋方面への進撃は不可能であることを思い知らされた。
 そして6月17日、アメリカはついに大規模上陸作戦を決行する。依然主力艦隊は後方の警戒に当てざるを得ない状況だったが、それでも空母8戦艦8を中心とした
大艦隊と、総計100個師団近い陸上戦力を乗せた多量の輸送艦を従え、トラックの軍港を出航。これを感知した日本はほぼすべての艦艇をその邀撃にあてようとし、
19日―ちょうど二次大戦のマリアナ沖海戦の27年後であった―に、マリアナ北方沖にて両艦隊が激突する。この大戦のマリアナ沖海戦は、世界の海軍史において
とてつもなく大きな意義を持った戦いであった。
 日本時間0600、両軍それぞれ8隻の空母を艦上機が飛び立った。が、空母航空隊の各機はこの世の地獄を味わうことになる。何しろ、両軍とも帰還できた機体は
4割に満たないほどだったのだ。これは、双方の戦闘機と、さらに充実したレーダーと対空兵装、殊に艦対空ミサイルによる損害が大きかった。何とか敵艦隊上空に
到達した攻撃隊はセオリー通り空母を集中的に攻撃したが、数を減らした攻撃機では空母の数を減らすのが精一杯だった。結局、日本側は空母そうりゅうとひりゅうを
喪失し、たいほうは中破し浸水傾斜、しょうかくが飛行甲板に大損害を受けそれぞれ発着不可となり、さらにうんりゅうが管制レーダーに被弾し航空隊の運用が
絶望的となる。航空隊も総合すると攻撃機は72%、戦闘機も64%を喪失し、また帰還機の多数も被弾損傷し二次攻撃隊の編成は不可能と判断、最低限の
直衛戦闘機のみをずいかくに集め、他5隻の空母は戦闘海域を離脱する。一方、米軍は空母ミッドウェイ、フランクリン・D・ルーズベルト、インディペンデンスを
失い、さらにエンタープライズの甲板を貫通した爆弾が格納庫内で爆発、航空機運用能力を完全に損失する。こちらも攻撃機の68%と戦闘機の70%を失い、第二次
航空攻撃を断念、直衛機をコーラル・シーに集め、残る4隻をトラックへ回航させる。両軍の空母が戦闘の劈頭に戦闘能力を失う結果となったことは、空母の
戦力価値が搭載する航空隊により決まり、十分な補充は行えない以上、大規模な機動部隊同士の戦闘ではその航空隊の多くを失い、戦力とならなくなるという
現実を突きつけたのだ。
 この時点で、米海軍は撤退するか否かの選択を迫られたが、撤退しないという選択をする。これは、日本への上陸のみにとどまらず大陸の陸軍を撤退させる
という第二任務が大きかったことから、撤退すなわち大陸の陸軍を完全に失うことを意味していたからだ。そして、航空戦力がなくなった以上、海上では
戦艦同士の戦闘が起こる。もはや二度と起こらないだろうといわれていた戦艦同士の戦闘が現実のものとなったのだ。
 この戦艦同士の性能差では、両海軍が想定していた海戦の形態の差がはっきり出た。米海軍は、広大な大洋での戦闘を前提としていたこともあり、
空母機動部隊に頼り、戦艦は陸上に対する砲火支援を前提として設計された。この海戦に投入された8隻の戦艦は、いわば巡洋戦艦であるアイオワ級4と、新造の
モンタナ級であった。二次大戦中に設計されたアイオワ級はともかくとしても、モンタナ級は砲撃火力と対空火力、また機動力に重点をおかれ、結果として
戦艦の砲弾に対する防御力は軽んじられていた。一方、日本は地中海や北海などの比較的狭い海域で、かつ戦艦と砲火を交えることを最初から前提として
設計されており、一般に防御力を重視し若干速力に劣っていたとされる。ただ、戦艦の設計に関しては大和の設計経験を持つ日本が大きなアドバンテージを
持っていたようで、個艦の性能では明らかに勝っていた。恐らく、この海戦での不安要素は数量、つまり、やまと型4隻とながと型2隻の計6隻しか投入できなかった
ことであった。
 会敵時、日本側はいわゆる丁字に受けようとし、米軍はこれを受け同航戦を挑むという、想定どおりの形となった。両軍ともレーダー管制射撃を実用化しており、
照準における差はなかった。まず、最遠距離からながと型2隻が砲撃を開始。同時期、米軍は最大戦速で接近し主砲射程内に捕らえようとする。
日本側はながと型戦艦が過負荷でも26ノット程度と低速であり、交戦距離に関してはまったくイニシアチブは取れなかったのだ。が、不運にも交戦距離に到達する
手前でモンタナ級2番艦・オハイオがながとの51サンチ主砲弾を受ける。これが2番主砲塔のバーベットを貫徹、弾薬庫に飛び込んだ砲弾が炸裂し、轟沈の憂き目にあう。
そして、両軍が前提としていた約20000メートルでついに本格的な砲戦が開始される。速度に優れる米海軍は機動力を生かした戦いをしたいところではあったが、
後方に守るべき輸送艦がいる以上下手な手は打てなかったのだ。
 先に命中弾を得たのはアメリカ側であった。数で有利だったこともあり、モンタナ級の2隻、メインとニューハンプシャーが砲撃を集中したながと型2番艦、
さがみに命中させたのだ。が、ここに米海軍の戦艦設計の大きな誤りが露呈する。長砲身の砲は見かけの射程は長くなるが、落角が小さくなることから甲板への
打撃力が大きく低下するのだ。もちろん、51サンチ対応防御のながと型が相手であったという時点で元から厳しい部分ではあったが。命中弾は非重要区画の
甲板部だったが(ながと型は非重要区画甲板装甲も対46サンチ程度はある)、ここを貫徹できずに表面で炸裂、副砲塔一つを使用不能にしたのみに終わった。
一方、その次の命中弾を与えたのはやまとであった。こちらの46サンチ砲弾は45口径の、旧大和の主砲の改良であり十分な貫徹力を持っていた。しかも、アイオワ級は
十分な防御力を持たないため、一撃で1番、2番主砲塔が使用不能となった。
 さらに致命的となったのが、戦艦の陰から接近していた日本の駆逐艦による雷撃であった。ほぼ無航跡のこの魚雷は、ソナーで感知することはできたが、
ソナーを有効にするためにある程度の犠牲を払わなければならない。そして、何より問題なのは、回避するために艦隊の統制した機動が取れなくなることだった。
結局魚雷は命中しなかったが、回避機動中はほぼ米戦艦は無抵抗状態となり、その後の陣形回復中にタコ殴りとなった。さらに、日本の戦艦に対しては
アイオワ級の50口径41サンチ砲はほぼ無力であったため、至近距離での舷側貫徹を狙い全戦艦にて突撃をかけるも、結局多量の46サンチ、51サンチ砲弾を受け
ズタボロとなる。この時点でアメリカはアイオワ、モンタナ、オハイオを失い、残る艦も中破、大破状態であったのに比べ、日本はしなのが主砲塔への直撃弾で
貫徹はしないものの歪みが生じ、1番、3番主砲塔が使用不可、またさがみは射撃管制レーダーを破損しまた副砲塔計4基を喪失、むつが非重要区画の被弾で
浸水し速力が低下していたが、喪失艦はなかった。
 そして、米海軍に止めを刺すことになるのが、日本側の奇手である。近海防衛に当たっていたミサイル巡洋艦と潜水艦、大量の爆撃機・攻撃機を投入し、
対艦ミサイルの飽和攻撃を行った。米艦艇も一部は回避し、一部は対空砲で破壊できたが、如何せん数が多すぎた。生き残っていた戦艦はすべて撃沈され、
補助艦も大量に損失することとなる。ことここにいたって米海軍は撤退を決断、マリアナ沖海戦は終結した。この海戦は、空母万能論が支配的であった
世界の海軍に対し、水上艦艇自体の限界を突きつけた海戦として有名である。
 米海軍はこの大量損失から積極的作戦行動をとる戦力を失い、一方日本側も機動部隊の中核に大損害を受けており、反攻は不可能であった。
 結局、この海戦が講和の最後のトリガーとなった。

ポツダム講和

 この時点でアジアから米軍は駆逐されることが確実な情勢で、また米本土が安泰なのもほぼ確実な情勢という状況となった。
そして、そうした長期化する戦争に対し世界的な厭戦気分が高まり、講和を求める国際世論が主流となった。
 これを受け、8月に入る頃から外交ルートで講和折衝が始まり、15日、ドイツのポツダムにて講和会議が開催された。この会議には、連合・枢軸だけでなく
マラカイボ条約機構とアジア州連合の代表も参加した。基本的には枢軸側の勝利とされる講和条件だったが、アメリカの主張も多く取り入れられた。

  1. 連合・枢軸・マラカイボ条約機構・アジア州連合はすべて解体し、そののち新たなる国際秩序を形成する。
  2. すべての国は、その本国以外の領土を保持してはならない。
  3. 日本は、その戦時独裁政権を解体し民主化し、また諸国の傀儡政権も解体する。
  4. 過去の戦争にかかわる債務は一切を抹消する。
    というのが主要な講和条件であった。
    第2項、第3項にはアメリカの主張が多く取り入れられた。第2項は、英仏をはじめとするアフリカ領の放棄を迫るものであり、また第3項は日本の勢力を
    削ぐためのものだった。なお、第4項はイギリスの強い要望によって加えられた条項である。
     さて、第1項における新たなる国際秩序、これが現在の世界連合、World Unionである。これは、第二次大戦を防げなかった国際連盟や、冷戦や第三次大戦を
    防げなかった国際連合の反省を多く取り入れた機関であった。本部はスイスのチューリヒにおかれたが、スイス自身は加盟しなかった。
    国家間の諸問題の解決は、今までのような安全保障理事会ではなく、国際法の専門家によって構成される国際司法機関が行うものとされ、安全保障理事会は
    軍縮条約や司法機関が武力介入を決定した事例への具体的対応を協議する機関となった。この際、常任理事国は日米英仏独ロ中(中国は、中華民国が本国領を
    回復した)の7カ国とされ、非常任理事国10カ国とともに協議にあたることとされたが、 国際連合と異なり常任理事国の拒否権は認められなかった。

戦後軍縮と各国のその後

 世界連合が軌道に乗り始めた頃、各大国は大戦によって拡大しすぎた軍備の維持費に苦労していた。そこで74年、安保理は3つの軍備制限条約を締結する。
第一が、各国の軍規模を制限する条約。第二が、部分的核戦力廃棄条約。第三が包括的戦略爆撃禁止条約である。これこそが過去四度の大戦の反省の上に立った
条約であった。

 さて、その後の各国を見てみよう。

アルバニア

 アルバニアは、中小国とはいえ日本に対する協力の実績は大きなものだった。講和により国土の大部分を独立させることとなったが、その独立させた諸国に対し
ある程度の影響力を持つことが認められた。日本の技術協力もあったことにより、現在でも世界有数の空軍国として知られている。

イタリア

 イタリアに限らず、ヨーロッパ諸国はその陸軍保有量に大きな制限がかけられたわけだが、イタリアにとってはある意味幸福であった。陸軍の大整理に伴い
発生した予算的余裕は、国内の観光地の復興に当てられ、現在では観光旅行客数世界一の地位を不動のものとしている。

スペイン

 本来なら、軍縮により軍備の多くを失い、ヨーロッパの中堅国として地道に歩むはずの国家だったが、イギリスとの戦争において海軍の再興を示したことが大きく
響き、欧州地域における発言力は国力に比すれば十分なものであった。現在は、日仏の協力により国内のインフラ・工場整備に余念がないようだ。

フランス

 ペタン氏は講和の成立をもって高齢を理由に政界から引退し、フランスは王国として立憲君主制を敷くこととなった。日英の皇王室との友好関係は特によく知られている
ほどだが、西伊まで含めた5皇王室は現在も定期的な会食の場を設けるなど友好関係を維持しており、政略的なものでなく姻戚関係を結んだ事例すらあるほどだ。
 国内産業という点では、民間航空機専門のエアバス社が欧州各国の連携により創設され、米国ボーイング社・日本の三菱中島航空機(80年代に合併した)と
大型旅客機の世界シェアを3分している。

イギリス

 戦後は一時期日本の管理化にあったイギリスだが、講和によりその自主権を回復。イギリス連邦という国家共同体はその存続を認められた。これは、コモンウェルスが
軍事的同盟でないことが大きな理由だったが、それ以前に連邦諸国の英国王室への帰属意識がある以上、それを無視する意味はなかったからである。
 現在でも、CHOGMといわれる連邦首脳会議での決定は、それなりに世界から尊重されるものとされている。
 余談だが、講和によりレンドリースの莫大な借金を帳消しにされたこともあり、世界の経済大国としての立場もそれなりに保たれている。

ドイツ

 英仏とも和解し、欧州経済圏において大きな発言力を持てるようになったドイツは、その優秀な技術力をして欧州工業の牽引役を担っていくことになる。
宇宙開発分野では日米に一歩先んずることに成功し、その他の先進技術でも世界の先端を走っているといって過言ではないだろう。

ベネルクス三国と北欧諸国

 連合からの離脱により戦争に巻き込まれずに済んだこれらの国家は、以降永世中立を宣言し、金融立国の道を歩むこととなった。いまだに英米との確執があるとも
言われるが、既に世界の金融市場は彼らなくしては動かない以上、友好関係を築かなければならないことは両者とも認識しているだろう。

オーストリア

 二次大戦以後永世中立を宣言していたオーストリアだったが、四次大戦の頃からハプスブルク家の帰還を求める声が強くなっていた。これを受け、終戦後、
世界連合はハプスブルク家の国外追放等の処分をすべて破棄する決定をし、オーストリアは立憲君主制の皇国となった。

アルザス公国

 この国は、独仏両国から完全に自立することを世界連合から求められた。無益な領土主張を行わせないためである。現在では、スイスと同様精密機器や
医療品等の生産で世界的に有名である。

中国

 中華4000年において初めて外国に完全占領を受けた中国だったが、国民党政権による統治が復活した以降、民主化の道を辿る事となる。日米両国からの、
戦争の償いとしての支援もあり、順調に工業大国への道を歩んでいるようだ。

ロシア

 この国は、本国を回復した後が大変であった。旧ソ連時代の暗黒面の清算には相当の努力が必要だったのだ。しかし、その真摯な姿勢から国際的な信用も
回復し、現在では中央ユーラシア地域の経済を率いる経済大国となっている。

アメリカ

 初めての敗戦により、世界における主導権の大部分を喪失したアメリカだったが、その強大な工業力は健在であり、いまだ世界経済においては相当大きな
影響力を持っている。技術的にも、生産力的にも世界有数のものであり、メイドインアメリカというのは庶民にとって安くて質がよいと大評判である。
 過去、一国行動主義と批判された国家だったが、敗戦により国際協調路線を歩み始め、世界連合の実力行使の大部分を任されるなど、世界の警察官としての
地位を確立し始めている。

そして、日本

 戦勝国として、世界を主導できる立場だった日本だが、その自身の国力は非常に脆弱であった。資源は一切自給できていないに等しく、諸外国と友好関係を
保ち、貿易によって国内産業を活性化させるほかなかったのだ。当然、一国行動主義などに出られるはずもなく、こういった自給のできない国が世界を主導する
ことが世界平和に貢献する、という面白い局面を見せるにいたった。
 国内は先進工業に特化し、メイドインジャパンとは、世界的な最高級ブランドであった。民主化とともに進められた高福祉国家化の影響もあり、世界でもっとも
国民が豊かな国、という評判もあながち間違いではないだろう。
 余談だが、皇室の少子化が危惧される近年、'碧い眼の入り婿'が噂されるが、事の真偽はいかがなものなのだろうか。

亜細亜に栄光を我が手で -完-

亜細亜に栄光を我が手で まとめ


*1 長すぎるのは勘弁して欲しい

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Last-modified: 2008-09-28 (日) 20:06:00 (3495d)