概要

日本属国のトランスアムール共和国が第二次日露戦争で勝利を目指すとてもありがちなAARです。
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プレイ環境

本体英語版日本語化DH1.04
シナリオ日露戦争
プレイ国トランスアムール
難易度標準
攻撃性標準
MODKaiserreich for DH 1.7 Hotfix 1
備考1前作
備考2次作

私とトランスアムールという国

トランスアムールという国家は、当時ずいぶん若い国家だった。

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ロシア内戦が1921年に何とか終結した後、アレクサンドル・コルチャークという海軍提督が1924年に当時のロシア政府に対してクーデターを起こした。
それがものの見事に失敗し、彼はウラジオストクに逃れた。

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運の悪い事に、私の父がこの騒動に関わっていたため、我が家は彼の後を追うように東へ敗走していったのだ。

当時のウラジオストクは、ロシア内戦中に日本軍が赤軍の進出を防ぐという名目で進出しており、内戦終結後に―――実際の所はどうだか知らないが―――
現地住民が望んだとかで沿海州に新たな国家を作り上げていた。ロシアにとっては不幸な事だが、当時の私達にとっては幸運だった。

日本はこの国の安定のためコルチャークをその傀儡政権の元首にすることを思いつき、ロシア本国への復権を狙うコルチャークもこれを受け入れた。
父もこの政権の軍に雇われ、我が家は何とかこの地に当面の住処を手に入れたのである。

その後私はウラジオストクで育ち、ウラジオストク第一中学校―――当時のトランスアムールの各種制度は日本の影響を多々受けており、教育制度も同様だった。―――を卒業すると、
父の勧めで士官学校へ入学、成績優秀ということで日本の陸軍士官学校へ留学することも出来た。

留学中の1940年5月。日露開戦直前に、慢性的な士官不足に陥っていたトランスアムール陸軍に呼び戻され、そのままトランスアムールが保有する数少ない機動師団である
第2自動車化師団へ配属され、ハバロフスクへ向かう途中に日露開戦の報を受けたのである。

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1940年のロシア軍攻勢

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開戦と同時に国境地帯は激しい空襲に襲われ。私達もそれから逃れるように、ハバロフスクへと到着した。

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アムール川下流のカヴァニを拠点としていた防衛部隊が敗走を始めていたが、ハバロフスクは既に私達を含め6個師団が防衛線を展開しており、日本軍の増援到着まで何とか耐えられるだろう状況だった。

そんな中、衝撃的なニュースが入る。

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ロシア軍が空挺部隊を用い、北樺太への空挺降下を行ったというのだ。
この奇襲攻撃は幸いにも現地守備隊の奮闘によって撃退されたが、日本軍に与えた衝撃は多大なものらしく、大陸へ派遣される兵力はずいぶん削減された。

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そしてその分、私達の負担は増大した。

7月上旬までにトランスアムールの文字通り全軍である12個師団が、ハバロフスクへ展開した。
本来であればウラジオストク周辺の防衛部隊は前線へ投入されるはずがなかったが、兵力の不足がそれを決断させた。

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もっとも海上優勢は東アジア最強を自負する日本海軍が確保していたから海からの揚陸は恐れることはなかったし、空挺強襲もそのほとんどが樺太にて撃滅されているため、そこまで問題ではなかった。

ともかくハバロフスクの防衛線を固めた我が軍であったが、問題が……控えめに言って多々あった。

たったの12個師団しかハバロフスクに展開できないということ、日本軍の増援到着はかなりの時間がかかるだろうということ、そして満露国境の佳木斯*1が突破され、後方を脅かされているということであった。

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ロシア軍先遣部隊はビロビジャンよりウラジオストクを目指して進撃を続けており、このまま進撃を許せば無防備な首都ウラジオストクが陥落する恐れもあった。
この事態を避けるべく、司令部は一時的に部隊をロシア領であるビロビジャンへ前進させ、敵の先遣隊を包囲する計画を立案した。

ロシア軍は我々がハバロフスクにこもり続けると判断していたのか、ビロビジャンの防衛戦力はきわめて少なく、7月13日の夜より攻勢が開始された。

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抵抗は脆弱であり、8月4日までにロシア軍先遣隊を包囲することに成功する。この時点で敵の先遣隊は鶏西にまで前進していたが、敵のそれ以上の前進は日本軍の増援によって阻止された。

包囲下のロシア軍はなおも徹底抗戦の構えであったが、我が軍の攻勢により佳木斯の4個師団が敗走した後、私が所属した第2自動車化師団は佳木斯に到着。

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9月1日に入り、日本軍と合同で鶏西に攻撃を開始。戦闘能力の残っていた3個師団に対し攻撃を開始した。

しかしここでハバロフスクより急報が入る。同地に対し、ロシア帝国軍主力による大規模攻勢が開始されたとのことだった。
敵は機甲2個師団を含む総数10個師団であった。

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直ちに我々も、ビロビジャンの6個師団もハバロフスクへと急行し防衛体制に入ったのだが、10月5日、ロシア軍の攻勢に耐えきれず、ハバロフスクは陥落した。
一連の戦闘で我が軍は4万人近い損害を被り、陸軍は大損害を負ったほか、空軍もハバロフスクからの脱出に失敗し、我が国の空軍は全滅した。

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トランスアムール陸軍は大損害を負ったが、致命的な打撃ではなかった。当時はまだ何とかかき集めた5万の予備兵*2が存在し、どうやら少なくともすぐに使える敵の空挺部隊が全滅したらしいと判断した
日本陸軍が漸く増援部隊を派遣し出したためだ。

10月15日には部隊の再編成が完了し、我々は日本軍や満州軍と共同でまだ防備体制が整っていなかったハバロフスクを奪還すべく総攻撃を行った。
16個師団による攻勢の前にロシア軍先遣部隊は僅かに2日で後退。これまでの戦闘で疲弊したロシア軍主力は、我々が奪還したハバロフスクへ攻撃をかけるもこれに失敗し、
ハバロフスクは再び我々の手に戻された。この頃には同様に満州に包囲されていた敵ロシア軍も降伏し、戦況は再び五分に戻った。

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ロシア軍は確実に消耗しつつあった。シベリア鉄道は奪還されたとは言え一部地域がモンゴルに支配されていたことによる混乱がまだ続いていたのに対し、
日本側は海路、鉄路による輸送路の確保は盤石の体制であった、さらに言えば1904年の日露戦争時代に比べて、日露の国力差は圧倒的に縮まっていたのである。

10月末、今年はこの戦線を維持しつつ終わりだろうと思っていた矢先に、アムール川対岸のエリバンに対する攻勢を実施せよとの命令が下った。
エリバンの敵部隊はハバロフスクを巡る戦闘で著しく消耗し、敵の防衛線は弱体であった。またこの地の飛行場には極東ロシア空軍の爆撃機部隊が展開しており、
一時的にでもエリバンを占領し、敵機が飛び立つ前に地上で撃破すべく作戦が実施されたのである。

この作戦で重要となるのは機動力であったため、必然的に自分たちの第2自動車化師団が先頭に立って進軍することとなった。
我々の目的は敵飛行場の制圧と敵機の地上撃破であり、それが終わった後は早々に撤収する手はずになっていた。エリバンの制圧は後からやってくる歩兵6個師団の役割であった。

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11月1日、攻勢が実施された。我が軍の攻勢の前にエリバンの敵前線は1日で崩壊。すっかり道が積雪してしまい進軍には苦労したが8日に敵飛行場を制圧。
海軍爆撃機部隊と戦術爆撃機部隊の2個飛行団を地上で撃破することに成功、しかし敵は機甲師団まで持ち出してエリバン奪還にかかり、
我々は尻尾をまいて逃げ出す事となった。

12月8日、日本軍の増援と共にエリバンの確保に成功し、ハバロフスクの安全は漸く確保された。
冬の寒さが本格化したこともあり、1940年の戦闘は膠着状態に陥った。
ロシア軍の沿海州方面に於ける1940年の攻勢はことごとくが防がれ、我が軍はハバロフスクの維持に成功した。

しかし、ロシア軍はこの冬の間に後方から兵を送り込んで来ることが出来るのだろうが、我が軍はそうもいかなかった。
ハバロフスクを巡る激戦で年末までに既に予備兵は6千人まで減少し、今後の兵力補充はきわめて厳しいものとなりつつあった。

1941年上半期のロシア軍満州侵攻とトランスアムール軍の反攻

ロシア軍はまだ冬の厳しい1月、満州方面において大規模攻勢を実施した。
日本側が沿海州に主力を展開させていたのもあるが、これがもうほとんど致命的で、満州軍はこれを抑えきれず潰走。
再び大突破を許し、首都ウラジオストクが危機に瀕することとなった。

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司令部は再び、突撃を敢行するロシア軍先遣隊を包囲する作戦を立案した。
前回と同じように我々が先鋒に立つ形になったが、このときは正直成功する気が無かった。我々の部隊には優先して補充兵が割り当てられていたが、彼らはほとんど連れてこられたばかりの新兵であったし、
突破した敵部隊の数は前回と同程度であっても、日本軍、満州軍の支援がどこまで受けられるか不明であった。

2月7日、作戦が実施された。ビロビジャンより進発し、佳木斯周辺に展開するロシア軍を包囲するというものであった。
作戦を開始した直後、エリバンがロシア軍の猛攻を受ける。現地に残る6個歩兵師団が奮戦しているうちに我が軍はロシア軍の包囲を完成させなくてはならなくなった。

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敵部隊は少数であったため包囲の起点となる鶴崗へ向けて進軍を開始。我々のみでこの地を敵が降伏するまで確保せよとのお達しだった。
現実的なところ、我々は長期間この地を確保できない。従って、満州軍や日本軍が南から攻勢を開始し、敵を追い詰める手はずになっていたが、実際どこまで信用になるかは不明であった。

2月28日、鶴崗*3を占領すると同時にロシア軍は奪還作戦を開始した。一方日満連合軍と我々も佳木斯に包囲したロシア軍6個師団へ一斉攻撃を開始。

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既にハバロフスクへ後退していた歩兵師団も合わさって攻勢をかけ、3月15日にこれを降伏させる事に成功した。

漸くこの作戦が終了したが、特に第2自動車化師団の損害は甚大であった。ただでさえ少ない精兵は斃れ、それよりも多くの新兵が戦場の露と消えた。

しかし一方で、トランスアムールの司令部はこれを好機と考えた。ロシア軍が満州へ兵力を集中させ、一部で包囲が成功したためオホーツク方面の敵兵力が減少したと考えたらしい。
実際に敵兵力は満州に攻勢をかけるようになってから減少してはいたが、我が方の戦力で突き崩せるものかどうかは不明であった。

4月、再びエリバンより北上する形で攻勢が開始された。敵防衛戦を粉砕し、突破するところまでは上手くいった。
だが、それまでだった。敵地を占領しようとすれば戦力を再編させ周辺より集結したロシア軍の前に瞬く間に敗走する事となった。

しかし、ロシア軍も息切れしていることは間違いなかった。現に北満州を制圧したにもかかわらず哈爾浜、新京は日本軍の頑強な抵抗もあったのだろうが
未だ陥落していなかったし、度重なる攻勢でこちらも損害を負っていたにもかかわらず、アムール川を越えてロシア軍が流れ込んでくることはなかった。

第二次日露戦争は、ここに来て完全な膠着状態へ陥っていた。ロシア側は欧州情勢が混迷を深めつつある事もあってこれ以上の増援を送ってくることはないが、
日本側も長引く戦争への不満、統制派による軍事独裁体制への不満が高まりつつあり、迂闊に本土にある兵力を前線に送り込めない状況が続いていた。

このまま膠着状態が続くかと思われたが、7月10日、事態は急変する。

1941年下半期の上清天国参戦と終戦

7月10日、一応重要拠点を保持し続ける日本側の戦況を見た上清天国軍がこのまま戦争が続けばロシアは撤退することになり、
その後後背の安全を確保すべく日本側が中国に矛を向けることを警戒した上清天国軍が日本に対し宣戦布告。北京駐留の日満軍が攻撃を受けているとの急報が入った。

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我々には正直、どうしようもなかった。アムール川流域から離れられるような戦況ではなかった。
結局我々は、何とかこらえてくれと祈るばかりであったが、現実は非常であった。

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北京をあっという間に失い、一気呵成に満州へなだれ込んできた。彼らの装備は日露の最新式装備に比べれば2,3世代は劣る型落ち品であったが、その数は圧倒であった。
それでも日満軍は見事であった。敵の攻勢を盤錦*4までで何とか押しとどめ、満州へのそれ以上の侵攻を阻止した。

ロシア軍の攻勢も凌ぎ、新京は最後までロシア軍の侵入を許さなかった。

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膠着状態が続かなかったのは、我々の担当する外満州での戦闘だけだった。司令部は何度も攻勢を実施した。夏の間、我々は常に北へ向かって進撃し、そしてその度にロシア軍によってたたき返された。
既に兵役人口は底を尽き、我が第2自動車化師団もとうの昔に定員割れを続けていた。

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これ以上の戦争は、限界なように見えた。そしてそれは、日露両国も同じであったらしい。

1941年の末、日露両国間で停戦が結ばれた。その内容は戦前の国境を維持し、ロシア側が賠償を支払うという日本側にやや有利な条件での終戦だった。
実際まだ日本側には戦力を投入できる余裕があったのに対し、ロシア軍は欧州情勢もあってこれ以上どうしようもなく、この冬が終われば日本側の攻勢によって大敗する危険すらあった。

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いずれにせよ、日露は講和し、日本は東アジアの覇権を盤石のものとした。

トランスアムールも幾ばくかの賠償金を手に入れた。それが流された血に見合うものであったとは個人的には思えなかったが、国民は少なくとも勝ち、戦争が終わったことに満足したようであった。

コルチャーク提督のトランスアムールという国家は、この戦争を何とか乗り越え、また新たな道へ向かって進むときが来ていた。

ヴィクトル・スタルヒン(1980)『ヴィクトル・スタルヒン回想録』民明丸訳 民明書房より一部抜粋

おまけ

KaiserreichDH1.7最新和訳用の日露戦争シナリオの和訳です。なにか問題があったらコメント欄の方か筆者ツイッターまでお願いします。

コメント欄

最新の20件を表示しています。 コメントページを参照

  • 相変わらずさっぱりとしていて、読んでいる人に読ませるいい文だなぁ(しみじみ) -- 2016-08-07 (日) 00:28:43
  • こんなMODあったのか。Kaiserreichは神秘に満ちている -- 2016-08-07 (日) 00:30:02
  • 一応指摘すると人的資源50は5万人だゾ -- 2016-08-07 (日) 01:03:09
  • 日本の野球史も大きく変わったんだろうか -- 2016-08-07 (日) 09:10:37
  • スタルヒン出征してたのか -- 2016-08-07 (日) 17:03:10
  • スタルヒンwwwwwww -- 2016-08-07 (日) 22:32:23
  • スタルヒンかなと思って読んでたら本当にスタルヒンだった -- 2016-08-08 (月) 14:38:36
  • 上清天国、無事ロシアに単独講和され死亡 -- 2016-08-10 (水) 12:14:10
  • スタルヒンは、リンドバーグと並んで架空戦記のスーパーサブ(何でも屋) -- 2016-08-11 (木) 14:28:44
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コメント返信

  • 相変わらずさっぱりとしていて、読んでいる人に読ませるいい文だなぁ(しみじみ) -- 2016-08-07 (日) 00:28:43
    東條英機.pngいつもありがとうございます。今後も頑張ってAARを書いていきたいと思います
  • こんなMODあったのか。Kaiserreichは神秘に満ちている -- 2016-08-07 (日) 00:30:02
    東條英機.pngMODというか、同封されているショートシナリオですね。この他にも1926年のドイツによる中国介入シナリオなどもあります
  • 一応指摘すると人的資源50は5万人だゾ -- 2016-08-07 (日) 01:03:09
    東條英機.png【悲報】筆者、算数が出来ない
    昭和天皇.png今更ではないか?
    東條英機.png……ご指摘ありがとうございます。修正しておきました
  • 日本の野球史も大きく変わったんだろうか -- 2016-08-07 (日) 09:10:37
    東條英機.pngKaiserreich世界の日本野球史は結構変わっていそうですね、太平洋で多数の輸送艦が沈められるなんて事はなさそうですし
    昭和天皇.pngとは言えロシアと血みどろの戦争を起こすこともあるからなかなか分からないがな
  • スタルヒン出征してたのか -- 2016-08-07 (日) 17:03:10
    東條英機.pngこの世界では出征して貰うことになりました。史実では全くあり得ないですが
  • スタルヒンwwwwwww -- 2016-08-07 (日) 22:32:23
  • スタルヒンかなと思って読んでたら本当にスタルヒンだった -- 2016-08-08 (月) 14:38:36
    東條英機.png仮想戦記とかでたまにある史実とは違う立場に立った人物というのをやってみたくって、日本傀儡のロシア国家であるトランスアムールの人物…ということで思いついたのが彼でした
    昭和天皇.png全く軍歴のないスタルヒン氏を軍人に仕立て上げるのはどうなのだ
    東條英機.pngまあ父親はロシア帝国将校だったみたいですしソ連が成立していないならありえるんじゃないかなと思いまして……
  • 上清天国、無事ロシアに単独講和され死亡 -- 2016-08-10 (水) 12:14:10
    http://art25.photozou.jp/pub/737/3112737/photo/239640438_org.v1470811404.png勝手に便乗宣戦したカルト教徒の事を我がロシアが考慮する必要性がどこに?
  • スタルヒンは、リンドバーグと並んで架空戦記のスーパーサブ(何でも屋) -- 2016-08-11 (木) 14:28:44
    リンドバーグ.pngまあ大統領も出来る私には叶わんが
    東條英機.pngというかスタルヒン氏ってそんなに仮想戦記に出ていましたっけ……?

東條英機.png以上で全編完結となります。今回もお付き合い頂きありがとうございました。


*1 ジャムス
*2 人的資源50
*3 ホーガン
*4 バンキン

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Last-modified: 2016-08-07 (日) 00:13:22 (1199d)