【KRロシア】黒馬を見たり

魔の山

ロンドン総督府

マルコフ.png……
ピョートル・ヴラーンゲリ.png……
ドロズドフスキー.png……
レビートフ.png……
ツルクル.png……

本営は、悄然としていた。あれほどの死を生み出した怪物は、ロンドンのどこにも存在しない。
レビートフ曰く、猫の耳を生やしたような子供が自刎して、その血が怪物の兵団を彼方へ追いやったらしい。
もう一人の同行者がどこに行ったかも知れない。狼の毛が付いた、ボロボロの野戦服しか回収できなかったと言う。

アンネンコフ.png医者はまだか?

全員にとって、怪物は過去のものであった。今は皆、ウラジーミル・カッペリが横たわって、目を覚まさないで居るのを憂いている。
革命の危機において死をも恐れぬ兵団を作り、ボルガ川の母なる流れを取り戻し、「唯一にして不可分のロシア」を取り戻すに当たって、比類なき貢献をした男は、いま昏睡状態にあった。

回想

戦争の決定打。それが怪物二名の突入にあったことは疑う余地も無い。しかし彼等の功績が史書の目に留まることは無いだろう。
レビートフが凱旋した時、「ヨーロッパ一危険な男」として新大陸、東洋の雑誌は取り上げて、あたかも怪物退治の貢献者に仕立て上げたからである。
彼は待ち受けていたマスコミを遠い目で見つつ、後世戦争のピリオドはカッペリ将軍の手によって打たれたと語られるようになるのだと思った。

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カッペリ.png怪物共の数が少なくなってる!?
アンネンコフ.pngらしいな! マンシュテインもたまには良いことをする。塩漬けキャベツ二個分でロンドンが俺たちのものだ

アンネンコフは、化け物の首を掲げながら笑った。首を切り落とされたのにまだ生きている。アンネンコフもアンネンコフで、噛みつかれそうになったのを喜びながら、地面に落として膾切りにするのだった。

アンネンコフ.png俺のセミレチエ愚連隊で盗りに行く! 時計塔が何か凄いことになってるからな、あそこに旗を立てに行くぞ
カッペリ.png駄目だ
アンネンコフ.png何で?
カッペリ.png貴官の部隊は怪物との戦いで崩壊寸前までなったはずだ。行くな

アンネンコフは死にたいから行くのだと言おうとしたが、カッペリはもう彼と目を合わせず、自ら前線に勇躍していく。
カッペリの後ろには黒ずくめで、頭蓋のマークを身に付けた男たちが付いて行った。カッペリのシャーシカが光ると、一斉に銃剣を揃えていく。

アンネンコフ.pngアリストクラシック……

アンネンコフは思わずそう言った。カッペリのような兵隊が、まだこの世のどこかにいるのだろうか。指揮官みずから突入していくような軍隊が。もうここにしか居ないし、これから新しく生まれることもアンネンコフは無いと思った。
カッペリもまた、アンネンコフと同じように、次の時代を必要としない人間なのかもしれなかった。


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ミハイル・ドロズドフスキーは、時計塔の前で十字を切った。敬虔な男であるから、敵である大英帝国に対しても「灰は灰に、塵は塵に」と唱え、ノルマン公からヴィクトリア、そして哀れなジョージ五世の代にさかのぼって、その歴史をしのばざるを得ない。

ドロズドフスキー.png(あそこにはまだ最後の抵抗分子が居る)

ドロズドフスキーは、彼等のためにも祈った。化け物が相手なのでは無いらしい。インターナショナルを奏でている。

名無し.png圧制の壁破りて 固き我が腕(かいな) 今ぞ高く掲げん 我が勝利の旗

時計塔には赤旗が翻った。まるでそれは、この街に流れた全ての血を吸い上げているようだ。ドロズドフスキーは副官の耳打ちにうなずいた。

ドロズドフスキー.pngあの中にトロツキーが居る……

彼が、整然たる軍靴の響きを聞いたのはその時である。赤に対する黒があり、星に対するドクロがあるのを久方ぶりに見た。
地上のドロズドフスキーは黄色い星のある赤旗では無く、黒地に白い頭蓋を描いた、顔なじみの率いる軍隊に息を飲む。

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ドロズドフスキー.pngウラジーミル・オスカロヴィチ……

ドロズドフスキーは、カッペリが横目でこちらを見やって、平素と変わらない笑顔を見せたのを認めた。ドロズドフスキーは笑顔で返そうとしたが、表情豊かでないが故に、十字を切って返すことにした。
後にドロズドフスキーはそれを後悔することになるのだが、いま彼は勝利を確信し、平和がロシアの手によって永久無謬に築かれる、偉大な行事を担うのだと信じていた。

彼はそれをカッペリと共にやるのだと思っていた。

ロンドン時計塔内

トロツキー.png何という失態だ!

トロツキーは、時計塔の中で狂乱していた。彼は、あの爆弾が炸裂した後、這うようにして進んで、燃え滾る執務室を出た。
原爆が平等に地下壕を破壊したおかげで出来た道から地上に出たのである。
彼は、モズレー一党がもうこの世に居ないのを耳にした後、「役立たずが消えた」と思い、赤軍のうち最も忠勇なものを筆頭に、全人民的な野戦軍を組織しようと試みていた。
完成した暁には、燃え盛るロンドンを要塞線として、世界中のプロレタリアートが決起する日まで戦おうとしていたのである……あと一歩で怪物が暴発したために、その試みはご破算になったが。

トロツキー.png10月26日からそうだ。革命が成就したと思えば、反革命の軍隊が押し寄せてくる。ロンドンを落としたかと思えばサヴィンコフが成り上がり、ドイツを滅ぼしたと思えば……

トロツキーはせき込んで、それから掌をじっと見た。旗のように紅かった。原子物理学は詳しくないが、新型の爆弾はその理論を使ったものに違いない。
自分はもう長くないと悟ると、トロツキーの腸は煮えくり返り、なおのこと血を吐き出した。ペトログラードでの勝利が最初で最後の栄光であった。
英仏革命は共産主義に真の栄光をもたらしてくれると信じ戦ったのに、残ったのは瓦礫だけである。

トロツキー.pngあと少し、今一歩時間さえあれば……

ドイツが負けてさえいれば。コルニーロフが戦死さえしていれば。或いはレーニンが生き延びてさえいれば……後悔のみがトロツキーに残った。
今の自分は無力な老人であり、ロンドンはカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスに用意された巨大な墓場となる。
共産主義は腐敗したあばら屋のように倒壊して、何も残らぬであろう……トロツキーが拳を振り上げた時、扉が音を立てて鳴った。

ライリー.pngやぁ

トロツキーは、扉の前に立つ男を見てうめき声を上げた。007と呼んできた男がまだ生きている! 革命がまだ死んでいないようにさえ思えた。
あの新型爆弾の災厄をしてなお、自分とライリーが生きている。トロツキーは今や神仏以外にならなんにでも縋りたい気持ちで、ライリーの下へ歩み寄った。
鈍い銃声が響いた後、血だまりが床に拡がるには十秒あかからなかった。

瓦礫と化した名の知れぬ大通り

イギリスと言う国家が滅亡する前、ノルマン公の征服以来保たれてきた秩序を砕き、新世界の尖兵となるべく運命づけられたイギリス赤軍は、旧い時代の軍隊である白衛軍に最期の抵抗を試みた。
ダウニング街の各地で、新型爆弾を前に一掃されたと思われていた赤軍は、自らの血に染まった旗の下で最期の一兵になるまで戦い続けた。
カッペーレフスチもまた、彼等の力を根絶すべく戦いを続けた。黒地の軍服はイギリス兵の血を被ってなお、その色合いを保ち続けていたが、将校部隊の士気は限界だった。

カッペリ.png怯むな

カッペリはそう口にして、折れ曲がったサーベルを敵に叩きつけている。司令部から何の音沙汰が無いのは、交渉の相手がどこにもいないことを示唆していた。
イギリス兵の抵抗も政府が消滅したからであろう。彼等が士気を全く失うまで戦闘は終わらないだろう。カッペリは四方を飛び交うハエが、振り回したサーベルに叩き落されていくのを見て気味悪くなった。
この地獄が続けば、やがてブリテン島に人は住めなくなる。廃墟の連なる西ヨーロッパは三十年戦争やペストを上回る災厄で、残るのは石の廃墟だけとなるだろう……。

カッペリ.png(蒼ざめた馬に黒い馬)

彼の総指揮官が著書を出したのをカッペリは知っていた。黙示録に出てくる四騎士の中で彼の総督・サヴィンコフは、滅亡と飢餓とを描いた。
まるで彼は、この地獄を作るために生まれて来たようなものでは無いか。現実を白紙とするなら、この死の光景はサヴィンコフのペンであり、文であり、彼の辿った半生そのものでは無いか?
カッペリが思ったのは、そのようなことだった。彼は不意に空を見上げ、やけに青く澄んでいる色に気を取られた。小さい塊が胴体をすり抜けたかと思うと、カッペリは血を吐いて膝を突く。
将校の一人が駆け寄った時、カッペリの身体は地面に倒れ伏していた。

愛のための剣

クレムリン執務室

デーレンタール.png……以上が、対英上陸作戦「雷」の詳細であります

執務室のサヴィンコフは、分厚い資料を前にして口をへの字に曲げた。今次英国攻略作戦である「雷」は、イギリスの国家基盤を全て撃ち砕いた。

親方サヴィンコフ.png死者推定300万。負傷者数不明。今年度の作物は三割以上が収穫不可能……
デーレンタール.png全て楽観的な数字を基にしてあります

デーレンタールが目をつむると、カッペリがこん睡状態にあることも付け加えた。デーレンタールの顔が白くなっているとサヴィンコフは思った。
とうの本人は死人のように蒼ざめていて、書類を持つ手が震えていたが、それを指摘する人間は誰も居ない。

親方サヴィンコフ.pngやられたのか
デーレンタール.png赤軍は死に物狂いでした。カッペリ将軍は前線に打って出て、矢も弾も尽きた結果シャーシカを取ったのであります
親方サヴィンコフ.png容体は? ……医者はやれないのか
デーレンタール.png道がございません……西欧の復旧にはまだ時間が掛かっていて……ペニシリンの数も追いついていないのです

サヴィンコフは、デーレンタールから顔を背けるようにイスを半回転させた。書類は机の上に置いて、壁と向き合いながら考え続けた。

何を今までしてきたのだろうか。答えは思いつかないでいる。ペトログラードからここに至るまで何人もの人間が見境も無く死んでいった。
死は区別が無く、親しい者から角逐を争った者まで、時宜をいとわず黄泉の世界へと誘っていく。この繰り返しを当然と受け入れてきたのはいつだろうか。テロリストになった頃からか?

親方サヴィンコフ.png(或いは俺が、権力の味を占めたからか)

サヴィンコフは立ち上がり、デーレンタールにロンドンへ発つと言った。血の連鎖を終わらせようと思ったのは、1917年にペトログラードへ戻った時以来だった。

ロンドン総督府

ドロズドフスキー.png……何ですって?

ドロズドフスキーは愕然とした。総司令官ともいえるヴラーンゲリ男爵が、自らを呼び寄せた後で持ち掛けた提案は、青天の霹靂だった。

ピョートル・ヴラーンゲリ.png事実だ

ヴラーンゲリは机の上で手を組んだ。鉄面皮にも珠のような汗が浮かんでいる。彼自身も信じがたいと言った表情で、ドロズドフスキーに話しているのだ。

ドロズドフスキー.png総督が亡くなられる? 何を馬鹿な……
ピョートル・ヴラーンゲリ.png残念だが、本当だ
ドロズドフスキー.png閣下とあろうものが。そのような与太話をデーレンタールにでも聞かれたら……

ヴラーンゲリが出入り口に目を配ったのを合図に、扉が開いた。ドロズドフスキーの驚きは更に増幅された。
彼の目前にはアントーン・イワーノビチ・デニーキンが立っており、ヴラーンゲリのことを

デニーキン.png閣下

とさえ言ったのである。デニーキンは立ち上がろうとするドロズドフスキーを制すと、自ら向き合ってドロズドフスキーにこう告げた。

デニーキン.png君は知らないかも知れないが、我々は既にチャーチルと連絡を取り合っている

ドロズドフスキーは心臓が飛び出そうだった。ヴラーンゲリとデニーキン二人が揃って、ドロズドフスキーに「協力」を申し出ている。しかも協力はただのものでは無い。ドロズドフスキーに「忠義を破って欲しい」と言うのだ。

ピョートル・ヴラーンゲリ.png戦争が長引いている。社会のモラルは破綻寸前だ。国債は際限なくねん出され国の財政が危うくなっている
デニーキン.pngにもかかわらず、ボリス・ヴィクトーロヴィチはこの問題を認識していない。わしの知っている連隊長は「まだ」十八だ。どういう意味か分かるかね
ドロズドフスキー.png若年人口が……足りないのですか

デニーキンはゆっくりとうなずいた。ドロズドフスキーは呆然自失となった。荒廃したヨーロッパにはより多くの兵員が必要である。だが、大学に行くほどの年齢層を動員すれば国が持たない。
動員が若者から将来を奪い国をやがて蝕んでいくだろう。

デニーキン.pngミハイル・ゴーデヴィチ。ボリス・ヴィクトーロヴィチは……やり過ぎた。奴が居れば諸外国もロシアを恐れる。恐れは戦時には有用だが平時には無用どころか、害毒だ

デニーキンは身を乗り出し、ドロズドフスキーの手を掴んだ。

デニーキン.png協力してくれるね

デニーキン.png戦争を終わらせねばならん。

舗装された車道

エマ婦人.pngボリス・ヴィクトーロヴィチ

エマは、眠りに落ちていたサヴィンコフの肩を揺さぶった。サヴィンコフは目を覚ますと目をこすって、目の前にある荒漠に胃痛を覚えた。

親方サヴィンコフ.pngエマ

サヴィンコフは、もう長いあいだずっと同志として戦ってきた、エマ・デーレンタールの手を撫でた。
彼女の夫であるアレクサンドル・デーレンタールも黙認する関係が続いて、二十年ほど経過しようとしていた。

エマ婦人.png浮かない顔ね
親方サヴィンコフ.png……だろうな

サヴィンコフは、エマにしわくちゃの手紙を見せた。エマはそれを見ると口唇を戦慄かせ、既に政治の表舞台から去ったアナスタシア・ロマノヴァとフェリクス・ユスポフの名を呟いた。

デーレンタール.png急ぎ閣下にお伝えしたいことがございます。この両名が今どこに居るか所在を掴みました。彼等はいま新大陸で息を潜め、現地の王立政府特務機関に協力しています。情報が確実に漏れています
デーレンタール.pngあろうことが陰謀には、内戦時に指導的な立場であった者たちも加わっています。戦争が長引くごとに参加者が増え、当方でも把握できない人数が組織の協力者と言うことです
デーレンタール.png引き返してください。ブリテン島が焦土と化した今、何もこの地に求めるものは無いはずです。もしこのまま首都近辺に進めば我が方では対処できないレベルの警戒を強いられます
デーレンタール.png総督がこの国には必要です

サヴィンコフは手紙を畳んで、それから自らのポケットに入れた。

親方サヴィンコフ.pngこんなものは必要ない

エマはサヴィンコフの手を撫でた。目の前には市街地の残骸が散らばっている。人の姿もまばらで、腹を膨らませているのにあばら骨が浮き出ている。
大英帝国はここに死んだ。サヴィンコフはそう思った。太陽の沈まない帝国は滅び、トロツキーも死に、あらゆる旧世代の良きものも悪いものも死に絶えた。残っているのは血塗れのおのれの手だけである。

もう、彼の脳裡に幻影は現れなかった。見えるのは滅亡の光景だけで、殺されるか衰えて死ぬまで走り続けなければならない。

親方サヴィンコフ.png死を恐れるものか

サヴィンコフの車は走り続けた。ロンドンへの道をひた走る車には、防弾用の壁もガラスから身を守るための鉄板も無い。
サヴィンコフが敢えてこの車を選び、危険を冒してまでもトロツキーの死を感じ取ろうとしていたのだった。

ロンドン総督府

アンネンコフ.png調子はどうだ? ウラジーミル・オスカロヴィチ

ボリス・アンネンコフは、他の将官らが持ち場に付く中でカッペリの護衛を任じられていた。彼の兵団は多くの流血を経て壊滅状態に陥り、とうてい任務に参加できる状況では無い。

アンネンコフ.png俺の部隊は後詰に回すんだそうだ。分かるか? お役御免だよ、悲しいねぇ

アンネンコフは冷やしたタオルに顔をしかめつつ、カッペリの額に掛けてやった。医者はまだ来ない。主だった飛行場は爆撃で壊滅していたし、医者は引く手数多だ。
カッペリはそれを見越して、担当軍医を他の部署に回していたのが分かったのはごく最近のことである。

アンネンコフ.pngだが俺が付いてるなら安心だと思う。この骸骨は死んでもなお戦う。英雄のシンボルだ、死神だろうが悪魔だろうが追い返してやる

アンネンコフはいつに無く情味があった。戦争が彼の心理を著しく変えたのかも知れなかったし、気を張る必要が無くなったのかも知れない。
いずれにせよアンネンコフは、看病によってカッペリを死の国から遠ざけようとしていたし、それが適わぬ夢であろうとも頭の片隅では理解していた。
……彼の下にドロズドフスキーが訪れ、恐るべき指示を下すことまでは知らなかったが。

ドロズドフスキー.png失礼する

ドロズドフスキーの声を聞いたアンネンコフは、途端に意地悪そうな顔を取り戻した。列車持ちの癖に軍医を運べないとはどう言うことだと悪態をつきたいがために、彼は扉の方に踵を返し、大股で歩き出す。

アンネンコフ.pngこれは、これは! ミハイル・ゴーデヴィチ……

アンネンコフは、ドロズドフスキーの後ろの二人の「長老」が居るのを察した。アントーン・デニーキンとピョートル・クラスノフである。

デニーキン.png
KR ピョートル・クラスノフ.png

彼等はドロズドフスキーの後ろに立っていた。ドロズドフスキーは警吏に連行されてきた死刑囚のようだ。ボル公で何人かそういう惨めな奴を見て来た……。
アンネンコフは躊躇った後、ドロズドフスキーに質問をしようとして遮られた。

ドロズドフスキー.png貴方の兵団と、ブリテン島に入港した新師団を合流させる。……直ちに「戒厳令」を敷いて欲しい

大通りだった道

サヴィンコフとエマ・デーレンタールは、瓦礫の山になったロンドンを巡って兵士を督していた。彼等はもはや揺るがせに出来ない権力を手に入れた「最強の二人」だった。
後は転落するか、もっと多くの血を啜って生きて行かねばならぬ「最恐の二人」でもある。
彼等はマルクスの理想を滅ぼすために、一度は西欧文明を火にくべたアッティラの業を再現することになってしまった。

親方サヴィンコフ.pngエマ
エマ婦人.png何?

エマが優しくサヴィンコフの手の甲を撫でる。サヴィンコフは口角を上げると、彼がかつてエフゲニー・アゼーフと共に戦闘隊を結成し、ロマノフ王朝に挑戦を仕掛けた時代について語り始めた。

親方サヴィンコフ.png昔、アゼーフと言う男が居たのは知っているな? ……よろしい。そこから話そう。
親方サヴィンコフ.png私がレーニンに「ベー・ヴェー*1」と呼ばれていた頃だ。私は運動でロシアを変えることは出来ないと信じた
親方サヴィンコフ.pngポグロム*2や貧困を変えられぬと信じて、社会革命党とアゼーフの軍隊に加わった。……正直に言うと楽しかったんだ。テロは苦しかったが、仲間はみんな個性的だった
親方サヴィンコフ.pngアゼーフはもちろんそうだ。カリャーエフもスピリドーノワも居た。チェルノフにケレンスキーもそうだギッピウス婦人もメレシュコフスキー氏も……
親方サヴィンコフ.png先の大戦も苦では無かった。大勢が死んだが、セダンの塹壕で毒ガスにやられまいとガスマスクを被った時……ナロードの側に居ると思えた

エマはサヴィンコフが、自分に喋っているのか他の誰かと喋っているのか、分からないことが怖かった。
サヴィンコフはどこも見ていない。彼はエマに顔を向けているが、視線は夢幻の彼方にあるように思われた。死の世界のとば口に立ち、もう肉体の朽ち、魂も奈辺にあるか知れぬ人々に向かって呼ばわっているように思えた。

親方サヴィンコフ.pngコルニーロフの片腕になってからだ。全てがおかしくなった。敵とは言え親しい者の血縁が、紅い星を身に付けているだけで処刑していった
親方サヴィンコフ.png善悪の区別なく、敵か味方かの区別で撃った。いつだって甘美であった勝利は鉛のような苦みに変わった。……今、私は何も感じることが出来ないのだ
エマ婦人.pngベー・ヴェ……

エマ・デーレンタールは、自分とサヴィンコフを尾ける誰かが居るのを感じた。ひたひたと近づいてきて、死を炸裂させようと獣のような執念を見せている。
彼女はサヴィンコフの手をさすり、必死の思いで空虚を見つめる彼に目を注いだ。しかしサヴィンコフは、まだ忘却と死の世界から抜け出せず、ひたすらに底に澱んだ思いを吐き出し続けていた。

親方サヴィンコフ.pngエマ

サヴィンコフにやっと正気が戻った。エマはそう思ったが、運転手が悲鳴を上げ急停車すると、道を遮る一人の男を見た。

ライリー.png…………

男は何かを叫んでいる。煙を吐く拳銃を捨て、懐から爆弾を取り出してくる。エマはサヴィンコフを庇ったが、爆弾は偶然にも割れた窓に入り込んできた。
エマはサヴィンコフを逃そうとするが、彼はライリーの顔を間近に見ても怯えた素振りすら見せない。

エマ婦人.pngアレクサンドル……

彼が懐から何かを取り出した時に閃光が生じて、膨大な熱が体中に叩きつけられた。彼女は爆発と熱の中に居る。サヴィンコフも中に居る。彼女が最期に見たのはサヴィンコフの持つ聖書であった。

「いと高きところには、栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」
                                  ──新約聖書・ルカ伝 2章8〜14節

夢幻の人々

ボリス・ヴィクトーロヴィチ・サヴィンコフの死は、それから間もなく全世界に知れ渡った。
ヨーロッパ全土を強大な権力で支配下かに見えた男の死が各所に大きな変動をもたらしたことは、言うまでも無い。

デーレンタール.png

アレクサンドル・ディクゴフ・デーレンタールは、サヴィンコフの死から四時間も経たぬ間に遺体として発見された。
モスクワ政治局のビルから飛び降りたとされているが真意は不明である。……追及を試みた者は悉く逮捕され、収容所に送られるか精神病院に隔離されたからだ。

トロツキー.pngモーズリー.pngオーウェル.png

三者の遺体は、発見場所も状態もバラバラだった。トロツキーは銃撃を受け、モズレーは原爆の光を浴び、身元不明の遺体からの確認作業を経てようやく発見された。
オーウェルに至っては所持品の切れ端が高温を発しており、科学者が「蒸発」認定をしたことで死亡が確認されたのである。

ライリー.png

シドニー・ライリーは、暗殺を成し遂げた後いずこかへ姿を晦ました。
英国軍事諜報部とのかかわりが指摘された後、ウィンストン・チャーチル等の英国人が数日間軟禁され、英国王のとりなしで釈放されるに至る。
ライリーの遺体はほどなく発見されたが、警察はこれを伏せた。事実が明らかにされたのは1980年代。……ロシアがユーラシア共同体へと変貌を遂げる最中であった。

ロシアではサヴィンコフとデーレンタールの死によって、権力構造が一気に変貌した。

ピョートル・ヴラーンゲリ.png今や祖国は、生まれ変わったのだ!
ピョートル・ヴラーンゲリ.png今や祖国ロシアは統一され、その栄光と未来に挑戦する者は無い! 手に入れた富を分配し、国家と社会の安寧と発展に力を尽くすべきである

新政権の棟梁にはアントーン・イワーノヴィチ・デニーキンが指名された。しかしこれは表向きで、実権はピョートル・ニコラエヴィチ・ヴラーンゲリが掌握した。
ヴラーンゲリは言論統制の大部分を解除し選挙権を認めた後、保守派とも合同して「サヴィンコフ批判」を開始した。
権力奪取の手法から戦争犯罪等、幅広い分野で「党」に対する批判が続出する。民衆もこれに乗じて巨大な党の死肉を奪い合った。
戦争が終わり秩序が求められ、血に染まった手を持つサヴィンコフやその与党は、歴史の掃き溜めへ埋没するより道が無かった。

アンネンコフ.png

ボリス・ウラジーミロヴィチ・アンネンコフは、サヴィンコフの死を聞くと同時にごく少数と、スコットランド高地連隊が潜むと言われる戦場に出たきり、戻らなかった。
戦争犯罪に関する軍法会議では、アンネンコフ等が徹底して追及されることは暗黙の了解だった。
アンネンコフは最期の、名誉ある戦死を求めたという人間もいる。一方で本当に流れ弾に当たってしまい、未来永劫自分の名誉を挽回する機会を失ったのだとも言われている。

一つだけハッキリと言えることがあった。
歴史の檜舞台に立った役者は全て、サヴィンコフの言うところの「夢幻の人々」になったのだ。
嵐が去って陽射しが降り注ぐように、地上を血と汗と涙で覆った英雄も革命家も、永久に蘇ることは無い。
皇女やそれを守る貴族も無い。雨後の筍の如く名乗り出る彼等の誰が真実を言っているのか……それは誰にも分からないし、知る必要も無い。
残ったのは酸鼻と、そこから再び暮らしを取り戻そうとする人間たちの姿だった。

マルコフ.pngウラジーミル・オスカロヴィチ

マルコフは、カッペリの遺体に語り掛けていた。最も称賛すべき勇士・カッペリは、サヴィンコフの後を追うように死んでいった。
彼の遺体はドンスコイ大聖堂に葬られると言う。一時はコルニーロフ将軍の廟に埋葬すべしとの提案もあったが、カッペリ自身が遺言で拒否していた。

カッペリ.pngそして皆に伝えろ

カッペリは遺言を記録する者に、目をつむりながら明瞭な声でこう言ったという。

カッペリ.png最期まで誠実に、祖国と連隊を愛したまま死ねる私は幸せであったと

マルコフはカッペリの言ったことを反芻していた。ここを出てヴラーンゲリ首相と合議しなければならない。
西欧の恢復や、中近東における部族問題の処理、急速に接近して第三陣営を築こうとする日本=赤色インドの問題、新大陸で再び七つの海を手に入れんとするエドワード八世の野望……。
彼は永遠にカッペリと、彼と共に駆け抜けた動乱の時代に終止符を打たなければならなかった。
マルコフは棺の隣で瞑目し、

マルコフ.png釘を打ってやってくれ

と兵隊に命じる。兵隊は無表情のまま、しかし棺が外れないようにと丹念に槌を打っていく。
マルコフは礼を言った後、カッペリの安置された部屋から出た。あれだけの煙を吸い込んだ空はもう晴れ模様だ。遠くからは、「満洲の丘に立ちて」の歌が聞こえる。
戦争は終わった。生き残った者は「次」に備えなければならない。

マルコフ.png眠れ 勇士らよ 汝らの記憶を
カッペリ.png(母なる祖国は 抱き続けよう)

マルコフは、背中にカッペリの声を聞いた気がした。幻だろうとは思っていたが、首を少し捻ってみる。後ろにはカッペリの棺が安置された、特別な部屋がある。
しかし彼の肉体と魂は離れた、悠久のシオンの大地に居るのである。
マルコフは歩き続けた。兵隊の行進が彼と行き違いになる。太陽が昇り荒涼とした土地を照らし、そこから新しい緑が芽吹き始めていた。

彼は、果てしなく続く、耕され、やがて雨にうるおされた畑のルーシを、そして工場と仕事場のルーシを目にした。
学生や、将校や、綱領や、集会や、委員会のルーシでも無く、なにもしない、口の軽い、おしゃべりなルーシでも無く、耕し手と刈り手のルーシ、仕事好きで、負けることを知らない偉大なルーシを目にした…
そして彼は疲れ果てた心の底に、信仰が、ナロードへの、解放運動への、愛の上に立つ革新された世界への信仰が、純粋な炎となってふたたび燃え上がるのを感じたのである。
永遠の真理への信仰が。
                                    ──ボリス・サヴィンコフ著「夢幻の人々」

【KRロシア】黒馬を見たり <了>


*1 БВ
*2 ユダヤ人虐殺

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Last-modified: 2020-03-21 (土) 05:20:11 (183d)