虚構の銃声

寺内 M5039.png昭和の大軍制改革_寺内寿一の回想

私が陸相を務めていたころに行われた軍制改革の骨格とは、概ね以下のようなものであった。

一.本土に常駐する師団を以下のように改める。
   イ.	近衛師団…東京
   ロ.	第一師団…千葉
   ハ.	第二師団…仙台
   ニ.	第三師団…名古屋
   ホ.	第四師団…大阪
   ヘ.	第五師団…広島
   ト.	第六師団…長崎
   チ.	第七師団…釧路
二.朝鮮には第十九師団と第二十師団を常駐させる。
三.その他の師団を関東軍に配属する。
四.満州における対ソ国境要塞線を整備する。
五.満蒙、北支の政情が安定するまで漸次在満兵力を増強する。

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(↑内地常駐軍)
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(↑在満州軍)

これは満州の権益を長期的に防衛することを主眼とした改革である。
そもそも満州国を前提に日支関係を考えるに、長期的な友好関係など不可能なのであるから、
満州国の基盤を強固にしなければ支那との正常な外交などありえないのである。当然これに支那は反発すると予想されたものの、
それは限定的なものであり大勢に影響はないと判断したのであった。
ところが、西安での事件によって蒋介石が抗日を優先するようになると、この判断は誤りであったことがわかった。
議会はこの事件の原因を陸軍にあるとして糾弾し、計画の白紙化を求めたのである。
ただ、今更そうしたところで蒋介石の考えは変わらないだろうから、私が引責することでこの改革を継続させようとしたのである。

宇垣一成.png組閣の大命降下_宇垣一成の回想

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私が首相に推挙されたのは、西園寺公、湯浅内大臣らによるものであったと聞いていた。
当時の政党政治の腐敗に対する憤りもあり、すぐにこれを引き受けようと考えた。しかし、陸軍の中には、「長州閥」の私に対する憤りの声も多かったようであり、
特に石原などは私よりも林のほうが傀儡として都合がよいなどと考えたようである。したがって陸軍大臣の選出には大変苦労した。
まず寺内君に選出の願いを出したが、どうも難しいという。次に杉山君に聞くと、部内がまとまらないから(組閣の)辞退を願わねばならないという。
部内をまとめるのは君たちだろう、なんとかならないかと言ったのだが返事も芳しくなった。
やむなく小磯君に頼んだのだが、彼も「三長官が同意するなら」という返事しかしないのである。

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*1
どうも、事前に石原が根回しを行っていたようである。しかしこれでは内閣は流産してしまう、何とかならないかと再び杉山君に掛け合ってみると、
現在進行している軍制改革を全うできる保証があるなら部内がまとめられるかもしれないと言ってきた。
これは陸軍を統制せんとする西園寺公らの意向に逆らうものであるし、なにより支那との関係を損ねるものであるからとてもできない、と返すと杉山君はそれ以外で部内をまとめるのは極めて困難であると言ってきたのである。
そういうわけで私としては不本意であったけれども、大命を辞するよりはと思い、やむなく条件を受け入れることにしたのである。

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杉山元.png守るか、攻めるか_杉山元の回想*2

 昭和の初めごろ、日本には二つの選択肢があった。
一つは満州の産業開発を行ったうえでソ連との戦争に備える道であり、もう一つは蒋介石を叩くことで華北の安全を確保する道である。
前者を支持していたのが皇道派や満州組と呼ばれるグループであり、後者を支持していたのが統制派と呼ばれるグループであった。
しかし、二二六事件による皇道派の壊滅、軍制改革という名の軍拡の継続によって、陸軍内は対支一撃論が主流となるのである。
これは、日本の対支政策が武断か交渉かという段階から、いつ開戦するかという段階に発展した意味で極めて重大な変化である。
ただし、ここで留意しなければならないのは、対支一撃とは支那に対し華北の安全のみを要求するのであって、全面戦争を要求しているのではない点である。

 

後藤文夫.png盧溝橋前夜_後藤文夫の回想

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昭和12年前半に、あの戦争の遠因となる事件が二つ起こりました。
一つは宇垣内閣の成立です。前年の西安事件によって緊張が高まった日支関係に対してさらなる軍備増強を要求した陸軍と内閣の対立は広田内閣の総辞職を引き起こし、
代わって成立した宇垣内閣は引き続き軍制改革を強行していきました。
二つ目はソ連における赤軍の大粛清です。この事件で赤軍は大打撃を受けており、日支間の紛争に介入する可能性が低下したのです。

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ところで、超大型戦艦の建艦計画が浮上したのもこの頃でした。
前年の陸軍の大拡張とは対照的に海軍は冷や飯を食わされていたわけですから、永野海軍大臣は早急にこの計画案の承認することを求めていたのです。
しかし、この計画も戦争の勃発に伴い延期を余儀なくされました。

 

宇垣一成.png誰が引き金を引いたのか_宇垣一成の回想

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 盧溝橋において日支両軍の衝突が起きたという情報がもたらされたのは事件から一夜明けてのことだった。
当然政府としては事変に対する不拡大方針を打ち出し、現地軍に対して停戦するように命令を発した。
ところが、本来ソ連国境を警備するはずの関東軍の師団の一部が華北に向けて進撃中だというのである。
これに驚いて関東軍司令官だった南君に電話をつなぐと、早期に華北を平定し、蒋介石と有利な条件で交渉する目算があるという。
そんな馬鹿な、と思ったのだが、果たして彼の言う通り、関東軍は韋駄天のごとく支那を駆け抜け7月の中頃には華北一帯を制圧してしまったのである。

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 しかし、肝心の蒋介石との交渉がうまくいかない。蒋介石はもはや日本との協調は不可能だとし、徹底抗戦によって満州問題を解決する姿勢を示したのである。
それどころか国民党軍が上海の国際共同租界を封鎖しようとしているという情報も入ってくるようになり、事変を早期に収めるのはもはや不可能となったのである。

 

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*1 画像はhttp://business.nikkeibp.co.jp/atcl/skillup/15/091100003/091400002/よりお借りしました。
*2 この辺もしかすると不正確なところもあるかもしれませんので、なんとなくで読み流してください。

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Last-modified: 2017-01-07 (土) 18:11:13 (47d)