モズレーの憂鬱 †イングランドをコケにして建てられたエドワードの新王国だが、幸先よく暗礁に乗り上げていた。 最も懸念されていた英軍による早期の征伐やスコットランドの介入が無いことに胸を撫で下ろしたモズレー首相は、最大の危機は去ったとして総選挙の実施を公布した。 ヒトラーとムッソリーニに倣い、選挙によって国民の信任を受け、イングランド北部支配の正当性にすべしと目論んだのだ。 これが最初の躓きであると共に後々まで尾を引く最大の誤算でもあった。 方式も運営も英国のやり方を踏襲し混乱を最小限に抑えつつ、左派にかたよった主張をした者は民族防衛隊が弾圧した。 本来この地域から選出された代議士達は新王国を認めずジョージ六世のイングランドに残留しており、政党らしい政党はモズレーのBUF(イギリスファシスト連合)くらいなものであった。 そしてBUFは惨敗を喫した。 いや、正確には敗れてはいないのかもしれない。BUFは最大の議席数を保有する政党となっている。 しかし単純小選挙区制の選挙で過半数どころか三分の一を割り込んでは決して勝利と呼べはしまい。 BUFの大物であるウィリアム・ジョイス、ニール・フランシス・ホーキンスらも落選した。まさかの敗北にモズレーの求心力は低下を免れなかった。 党から離反したジョイスは国家社会主義リーグを立ち上げ、ホーキンスはイギリスファシスト党を復活させた。 ファシスト政党で躍進したといえるのはアーノルド・リースの帝国ファシスト連盟であろう。 それでも所詮は町議会規模の政党である。同志のヘンリー・シンプソンと勝利を喧伝したがたかが知れている。 モズレーは分裂するファシズム政党を何とか束ねることで連立与党を形成するのであった。
何故このような結果になったか。その要因はリースの勝利に答えがある。 同じ反ユダヤ主義者であるリースとジョイス、二人の明暗を分けた物の正体、それはリースがランカシャー生まれでリンカンシャーのスタムフォード町会議員であったことだ。 新王国の領域であるイングランド北部に地縁を持つことが勝利に重大な貢献をなしたのだ。 野党となった非ファシスト政党の多くは地方議会あがりであり、この独立にあたって結党されていた小政党群である。名前もマンチェスター保守党だとかダラス労働党という有様である。 BUFもサウスポート出身のアラン・ジョン・パーシヴァル・テイラーなどが当選している。 では何故ファシストによる蜂起を受け入れたはずの有権者が地元の政治家に投票したのか? イングランド北部の民衆はエドワードによる新国家をウェールズ、アイルランド、スコットランドの暫定自治区化の延長線上に捉えていたからだ。 つまりこの独立は一時的なもので各自治区が復興を遂げ次第再び連合王国へと再編されるという認識であった。 だから反ユダヤと親独親伊を叫ぶ余所者より地元の名士が選ばれたのだ。 モズレー個人も当選していたがそれはファシストのリーダーとしてではなく彼の雇用政策と経済再建案が受けたからだ。 この地で決起していずれはロンドンを攻めて国家を引っ繰り返し、独伊と共に欧州を席巻することを画策するファシストとは埋め難い認識の齟齬があった。 新王国の名前が「北イングランド」となったこともファシストと民衆のどちらに主導権があるかが表れている。 そういった意味では百年前を夢見るという新聞の表現もあながち間違いではない。有権者が望んだのはファシズムによって結束するイギリスでも欧州警察イギリスでもない、世界の工場たるイギリスである。
北イングランドによる最初の一歩は戦車師団の設立となった。 機械化部隊の急拡大は雇用を生み軍需によって多少の経済効果をもたらした。 また戦車師団のお披露目はその目新しさと力強さが民衆にそれなりに受けた。 モズレーは側近に制服のデザインについて相談した。 |