老当益壮 †時代は変わって昭和2年。 日本の対中外交は風雲急を告げます。 奉天軍閥と直隷軍閥は同盟を維持。広東政府に付け入る隙を与えません。 孫文は北伐を宣言するも、軍人の支持を得られず、失意の内に亡くなりました。 国民党は革命の大黒柱を失い混迷。 抗争は小康状態となり、民衆に盛り上がるは日貨排斥運動。 日本人が経営する工場では暴動とストライキが、商店では破壊と掠奪が引っ切り無し。 長春で、上海で、武漢で、在支邦人殺害事件は絶えません。 幣原外相が抗議をしたところで梨の礫。 それどころか張作霖は東三省交通委員会を設立し、日本の鉄道利権に真っ向勝負。 財界では治安回復の為、革命抑圧の為、権益護持の為、出兵已む無しの流れが出来ます。 軍内部では、排日暴動に後手後手で対処するしかない現状に憤り、懲罰すべしの声が広がります。 ですが濱口首相の腰は重い。 100を超す師団を有する北京政府に対し、帝国陸軍はその約半数。 機動改革による戦車も空母もこれが初陣となります。 軍紀粛正もまだまだ十分とは言えなかった。 開戦したとて勝てるのか。 勝てたとて何処で手打ちとするのか。 紛争の行き着く先が不安に溢れていたのです。 ところが1927年3月24日。外国領事館と居留民に対する大規模襲撃事件が南京で起きます。 西洋人にも犠牲者が出た事から、イギリス他諸外国は出兵を催促。 列強に配慮した不干渉外交は、却って無責任であると、非難されてしまったのであります。 外国の賛意があるならと、内閣は介入を決意。 軍を国境に送り、北京政府へ10を超す都市への無期限無制限駐留を最後通牒として要求。 呉佩孚執政はこれを即日拒否。日本は宣戦布告しました。 開戦後、まずは山本権兵衛元帥率いる機動艦隊が膠州湾を爆撃。 無傷で敵海軍の壊滅に成功します。 航空母艦の有用性が証明されました。 一方陸軍では予想外の問題を2つ抱えております。 1に将官の不足。 明治39年から凡そ20年、陸軍は19個師団体制のままでした。 それがたった数年で50個師団に膨れ上がったのです。 さらに木越陸相は内閣より、右翼組織に傾倒する者の昇進を抑えるよう、懇請されておりました。 例えば国本社に籍を置く、荒木貞夫大佐や小磯国昭大佐などが留め置かれています。 編成した軍の指揮官が足らなかった。 慌てて予備役将官と退役者を呼び出す羽目になりました。 結果、軍司令官は奥保鞏、長岡外史、松川敏胤、秋山好古、一戸兵衛、上原勇作、大迫尚道、山梨半造と1世代前の顔ぶれに。 2に戦車の遅さ。 試製一号戦車改め八四式戦車は、英仏の戦車より優れた踏破性と、時速20kmの最高速度を誇っておりました。 宇垣中将が描いたのは、その機動力で戦線を突破し、一息に哈爾浜と北京を占拠する事で屈服させる一撃講話策です。 ところが補給と故障によって行軍速度は歩兵とどっこいどっこい。 悪路では追い抜かれる姿も散見される始末。 練達の老将等は即座に実現不能と判断し、作戦を破棄。装甲と機関銃で敵を押し込む包囲撃滅へ切り替えます。 鴨緑江にて敵兵を、牧羊犬が如く追い遣り28個師団を殲滅。 興安打通で分断した満州から、40個師団を掃討。 内蒙古に孤立した16個師団を駆逐。 河北会戦にて突出した12個師団を石家荘で撃破。 100万超の北洋軍は1年ちょっとであれよあれよと20個師団足らず。 沿岸警備も手薄になり、国軍は上海にも上陸。 この大勝利に国民は大喜びでお祭り騒ぎ。全国が万歳万歳の声で埋まります。 東京では昼には子供たちによる旗行列、夜には40万の大提灯行列が行われ、東京は光の海となりました。 しかし濱口首相は頭を悩ますことになります。 勝ち過ぎましたので御座います。 北京政府の優勢によって折角安定してきた中華情勢は、この戦争で倒壊しました。 民心は呉佩孚から蒋介石に移っています。 講話を結び日本が退けば、大人しくなった国民党も北伐へ牙を剥くでしょう。 反帝国主義を掲げる革命勢力の伸長は、望ましくなんかあるはずがない。 勝利に浮かれた者達からは、返す刀で広東政府も攻撃すべしと意見が出てます。 内閣はどうにか蒋介石を説得できないかと四苦八苦。 その苦労も水泡へ帰します。 政府の目が華南に向かっているこの隙を突き、石原莞爾関東軍作戦主任参謀が独断で軍を動かしモンゴルへ侵攻。 あれよあれよと中立だった中華勢力と交戦状態になるので御座いました。 |